闊達で社交的なヘレン・マスターズは、かなり早い時期からワイン造り、特にピノ・ノワールに興味を持ち、持ち前のエネルギーと知性を総動員して知識の獲得と経験の蓄積に邁進、ニュージーランドとアメリカ合衆国とを⾏き来しながらヴィンテージの専⾨知識を獲得していきます。2003年にアタ・ランギの醸造責任者に就任してからもマーティンボローのテロワールについてより深く探究、その成果をニュージーランド最⾼峰のワインの⼀つ、アタ・ランギ・ピノ・ノワールと素晴らしい⽩ワインを通じて表現しています。クライヴ・ペイトン(左から3⼈⽬)ら、アタ・ランギのメンバーとヘレン・マスターズ(右から2⼈⽬)◆ 早くから醸造家になると決⼼ヘレン ―― 15歳の頃にはワインに興味がありました。兄がホークス・ベイの⾚ワインを家に持ち帰ると、家族でそのワインについてどこが良い悪いと議論するんです。そんな時はいつも美味しい料理があったし、私はそんな議論やその場の和気あいあいとした雰囲気が好きでした。当時、ニュージーランドでは⼈々が初めてワインについて語り出した頃で、ワインに対する先⼊観はありませんでした。 ⾼校最後の年となる1989-90年、⼤学に⾏く前にワイナリーで1年間働くことにしました。 ちょうどマイケル・クーパーの”Wine Atlas of New Zealand(ワイン・アトラス・オブ・ニュージーランド)”が出版された時で、そこに紹介されていた、若い夫婦が興した「アタ・ランギ」は素敵な場所のように⾒えました。彼らに⼿紙を書くと「すぐ来て」という返事が来て、⺟が私をアタ・ランギへ連れて⾏ってくれました。その場で「このまま残れます︖」と⾔われ、⺟は私を残して帰りました。服は後から送ってもらいました。マッセー⼤学に進学する前の1年間、アタ・ランギで畑仕事、ワイン販売、ベビーシッターもしました。 マッセーではフードテクノロジーに興味があり、応⽤化学に偏りすぎないよう基礎理論を専攻しました。醸造家になれなかったとしても応⽤範囲の広い学位ですから。基礎理論は⼯学⾯も多く、発酵⼯学では酵素と酵⺟の作⽤や冷却なども学び、とても役に⽴ちました。 4年間を終了して学位を取ると、様々なワイナリーで働きました。その時点でも醸造家になりたかったし、特にピノ・ノワールに興味があったので、オレゴンとロシアン・リヴァーのピノ・ノワールを得意とするワイナリーで働きました。初めから⽬的がはっきりしていたので、すべてが迅速に進み、よかったと思っています。◆ 今ワインを造る上で、特別な影響を受けたワイナリー―― 皆、独⾃のやり⽅があり、それぞれ違いますが、最初に全房発酵を⽬の当たりにしたのはカリフォルニア、サンタ・クルーズ・マウンテンズ内陸部で標⾼の⾼いマウント・ハーランにあるカレラでした。ワインメーカーのジョシュ・ジェンセンは、ブルゴーニュのドメーヌ・デュジャックで働いた経験があり、カレラでもワインを100%全房で仕込んでいました。1998-99年のことですから、当時のカリフォルニアでは⾮常に珍しく、他とかなり異なるスタイルでした。◆ アタ・ランギとマーティンボロー―― 1980年頃ニュージーランドでは、新しいワイナリーが次々できていました。南島ネルソンのムーテリーではフィン夫妻がノイドルフを⽴ち上げました。DSIR(ニュージーランド科学技術研究庁)の地質学者だったデレク・ミルンは、ドイツのガイゼンハイム(ワイン醸造研究所)で数年過ごし、マーティンボローは⽇照積算温度、降⽔量、⼟壌がブルゴーニュと似ているという調査研究をまとめ、それを基に弟ダンカンとともにマーティンボロー・ヴィンヤードを興しました。アタ・ランギの創業者クライヴ・ペイトンが最初の畑を興したのもこの頃です。ニール・マッカラムはDSIRを去ってドライ・リヴァーを⽴ち上げ、スタン・チフニーも同時期にチフニー・ワイナリーを興しました。マーティンボロー・ヴィンヤード、アタ・ランギ、ドライ・リヴァー、チフニーの4つのワイナリーがマーティンボローのパイオニアでした。 クライヴは、マーティンボローの北⻄にあたるフェザーストン南部で⽜を飼っていて、ワインを造ったことはありませんでしたが興味を持っていました。そこで1980年、彼は⽜を売って、その資⾦で⽺⽤の⼩さな⽯ころだらけの放牧地を購⼊し、ブドウを植えました。そのとても固い⼟地にブドウを植え、何とか⽔を確保し、ブドウ樹が成⻑するまでの間、⽣計の⾜しにニンニクとカボチャを植えていました。おまけに当時彼は⽗⼦家庭で、娘ニーフの唯⼀の親でもありました。やがて妹のアリがビジネスに参画、クライヴの畑の隣に2haの⼟地を購⼊し、ワインビジネスを育てるため、その⼟地にもブドウを植えました。 1986年、ラリー・マッケンナが南オーストラリアのローズワーシー⼤学で培ったワイン醸造の知識を携え、醸造家としてマーティンボローにやってきました。そしてモンタナ・ワイナリーの醸造家だったフィルがクライヴの妻としてアタ・ランギに参画、資⾦と技術的なノウハウをもたらしました。また今では有名なニック・ホスキンズがマーティンボロー・ヴィンヤードの栽培専⾨家としてかなり早い時期から加わり、マーティンボローに多くの栽培知識をもたらしました。いろいろありましたが、単にがむしゃらに働くのみだった、とクライヴは当時を振り返ります。 アタ・ランギのヴィンヤード地図後から考えると「どうしてそうなったのか︖」と思いますが、当時は試してみる以外になかったのです。マーティンボローはゆっくりと⾃然に成⻑し、造るワインは毎年すべて売り切れました。ウェリントンから来た⼈々はワインが買えることを喜んで、⾞のトランクいっぱいに購⼊していきました。 アタ・ランギの初ヴィンテージは1984年のレッド・ブレンドで、ピノ・ノワールは1985年に少量を造りました。その後、⽣産量は増え続け、2008年に最⼤量に達しましたが、その後は少し下がっています。 1980年代初期のニュージーランドワイン業界は⼈の動きがとてもダイナミックで、⼤きく⾶躍した時期でした。クライヴが最初の区画に植えたエイベル・クローンがマーティンボローにとても良く合い、最⾼の酸味と安定した品質のブドウができるなど、幸運に恵まれ成功した例もいくつかありました。マーティンボローはしばしば不作に悩まされますが、そんな時、エイベル・クローンは救世主的存在です。どちらにしても、当時は、スイス・クローンのAM10/5(テン・バー・ファイ ブ)はありましたが、クローンの選択肢が多かったわけではありません。苗⽊業者の数も少なく、台⽊についてもヴィニフェラ種との相性など、知識は持ち合わせていませんでした。ただピノ・ノワールだけは他品種と違い当時の⼈々の想像力をかき⽴て、皆急にブルゴーニュワインを造り出しました。それでも⼀⽅で、ニュー ジーランドのソーヴィニヨン・ブランは、かなり早い時期からその明快な表現⼒で世界的にも知れ渡りました。 もしソーヴィニヨン・ブランの成功がなかっ たら、今⽇のマルボローはなかったでしょう。セラードア◆ アタ・ランギの畑での進展は︖―― 畑は実際、今も以前と殆ど同じです。 アタ・ランギ初期のワインの質は驚 くほど安定していて、それらのほぼ全てがエイベル・クローンでした。ですから エイベル・クローンが合っていることは分かっていました。 ディジョン・クロー ンは最初に植え付けた時、収量が少なく、あまりにも早く熟したので、どうなる か分からなかったのですが、樹齢を重ね、より安定した⼀貫性が出てきたので、 それなりに使っています。 うまく育たなかったクローンは植え替えました。例えば10/5クローンは涼しい 年には弱いので、エイベル・クローンに植え替えました。2001年にアタ・ランギから800mほど離れたマクローン・ヴィンヤードを興したときは、アタ・ランギ(の ホーム・ヴィンヤード)と全く同じクローンを組み合わせて植え付けました。45% がエイベル、その他がディジョンとクローン5です。⽣産量は過去10年間、ほとん ど同じです。2008年、⾃分たちが100%管理できる畑を増やす決断し、必要としない契約農家との契約を減らし、少しずつ⾃分たちの畑を買い⾜していきました。 ⼟壌がワイン(の味わい)に与える影響は、時の経過とともにより深く理解で きるようになりました。 ブドウの根は何層もの⽯の間を通って伸び、地中3.5m の深さに達するには約25年かかります。その頃にはブドウ樹がつける房の数が 少なくなり、成熟にも時間がかかります。樹の根が深くまで伸びると、⼟中の温 度や湿度はさらに安定し、ブドウはゆっくりと低い糖度でも⽣理的に成熟する ようになります。 アタ・ランギは畑では⻑い間サステイナブル農法を実践し、ワイナリーでは 20年以上に亘り、環境マネジメントシステム(ISO14001)を導⼊しています。サステイナブルであるということは、クライヴだけでなく、全員で取り組んで いることなのです。 今では単に有機栽培をするということだけではなく、ワイ ナリーにソーラーパネルを設置したり、⼆酸化炭素やディーゼル油の使⽤量削減など、毎年新しい取り組みを⾏っています。ブドウのマストをコンポストする様子羊による草刈りヴィンヤードの棚の間には野生の花が咲き乱れる◆ アタ・ランギの醸造⽅針は︖―― すぐに楽しめるワインの醸造と、その⼟地の特性をしっかり表現して年⽉ とともに熟成するワインの醸造との間には微妙なバランスがあり、⾃分はどう するかということです。実際問題、やり⽅は毎年変えざるを得ません。収量が極 端に少なくブドウが⼩粒でタンニンが強い年は、果実全体をできるだけワイン に取り込もうと醸造家は慎重になりますが、ブドウの房が⼤きい年はワインは より親しみやすくなるので、「もっと⼤胆に」となります。醸造に影響を与える 決定事項は、いつ収穫するか、全房をどれくらい使うか、いつ果⽪を圧搾するか などですが、最⼤の決断は1年を通して、畑で⾏われているのです。全てが畑で 起こります。 ワイナリーでは、畑での結果を受け、ヴィンテージに合わせてしっかり対応していきます。 ヴィンテージは毎年違い、収穫から仕込みまでの7週間、緊張の 中にも「⼀⽣の間に何回インパクトのあるヴィンテージを造れるだろうか」と いう考えがよぎります。そのワインが20年先も評価に耐えられるようすべてを 正しく⾏いたいわけです。◆ ⾃分⾃⾝の醸造における進展は︖―― アタ・ランギでは⻑い間、ピノ・ノワールとシャルドネを⾃然酵⺟で造って きました。 ソーヴィニヨン・ブランのような後から始めた他の品種も⾃然酵⺟ に変えつつあります。 オーク樽もこの15年で⼤きく変わりました。以前はブルゴーニュのメーカー の樽を使⽤していましたが、最後の焼き⽬が⽐較的強く、ワインがよりスモー キーでフリンティ、アロマも強く出る傾向がありました。ワインにスモーキーでトースティーな⾵味の層が加味されることはそれなりに良かったのですが、 産地らしさが消されてしまっていました。 私は繊細なボルドーの樽が好きだっ たので、ピノ・ノワールにボルドー樽を試してみました。ボルドーの樽メーカー が私たちのために228Lの樽を造ってくれると⾔ってきたので、ブルゴーニュ産 と同じ型のボルドー樽を購⼊し始めました。その後、ブルゴーニュ樽の業界も ⼤きく変わり、今ではニュージーランドのピノ・ノワールに対する理解も深ま り、以前のように⼀つの⾵味の層で覆ってすべてをフラットにするのではなく、果実と酸の特徴をうまくサポートする樽を造ってくれます。実験段階では 多くの樽メーカーの樽を使⽤しましたが、現在主に使⽤しているのは約8社です。その8社でヴィンテージによる違い、ブドウのストラクチャーが⼤きい年 だったり繊細で軽めの年だったりという違いをカバーできています。ユーモア溢れる醸造家◆ 今後の発展のために―― ソーヴィニヨン・ブランの違う側⾯を出すため醸造アプローチを変えたことは、⼀つの例です。常に何か考えさせられることがあるのです。だからと⾔っ て、単にアタ・ランギのワインスタイルを「変化のため」に変えるということで はありません。シャルドネは余計な⼿を⼊れず、常にとてもシンプルに、ヴィン テージ特徴が表現できるようなクラシックなスタイルです。 どのヴィンテージも気象条件に左右されますし、それはワインに表れます。 ブルゴーニュと同じです。キャノピー・マネージメントを変えますし、 暖かい年 か寒い年かによって畑でやるべきことは違い、常に進化・進展しているのです。 よりよい台⽊やクローンがあるか、私たちは常に⽬を光らせています。ですからワイナリーよりも畑で栽培するブドウのほうが肝⼼なのです。まずは栽培から始まり、畑で正しく対応すれば、よいワインは⾃ずとできるものです。スタッフの勉強会《ヴィレッジ・セラーズより》2013年以来、2回⽬となるヘレンの来⽇に際し、去る10⽉、「アタ・ランギ・ピノ・ ノワール」と、2001年の開墾当初からアタ・ランギが栽培に携わり、2011年に⾃社畑として買い取った「マクローン・ヴィンヤード・ピノ・ノワール」との⽐較試飲 セミナーを企画した。 昔の川床からなる⼟壌「マーティンボロー・テラス」は、⽔捌けのよい⼩⽯混ざり の堆積層が25mの深さで広がり、ごく限られた箇所に深さ80㎝ほどの粘⼟質の 表⼟が点在。この粘⼟質の⼟壌を持つマクローン・ヴィンヤードはアタ・ランギの明るいスパイシーさに⽐べ、森の下草を思わせる⼟っぽさとヘレンは表現する。 コメンテーターの佐藤陽⼀⽒(「マクシヴァン」オーナーソムリエ)は、樹齢、全房発酵から「ゴム⻑靴(=エイベル)クローン」の当初持ち込み数まで尋ねられた。また⾃然派的なワインというのは⾃分たちで作り上げてこうとする⼒があるもので、双⽅のピノ・ノワールにそれが感じられる; ニュージーランドのソーヴィニヨン・ブランのイメージはすっきりミネラルでハーブが⼀般だが、アタ・ランギは違うよね等、沢⼭のコメントをいただいた。録⾳データのご希望は、弊社まで。