◆ 醸造家 ブレア・ウォルター(Blair Walter)ニュージーランド北島ワイカトの農家で育ったブレアは、父親がパイロットとして飛行機で肥料散布事業をしていた影響で、子どもの頃から農業と空を飛ぶことが大好きだった。しかしパイロットなるためには空軍に入隊せねばらならないことから、断念。南島クライストチャーチのリンカーン大学農学部へ進学する。そこでワインへの好奇心が深まり、大学院に新設された1年間の醸造・栽培学修士課程に進む。クラスで最年少のブレアがラボ・パートナーを組んだのが、ワインにのめり込んでいた熟年のスチュアート・エルムズである。2人は卒業後の再会を約束して、エルムズはブドウ栽培に理想的な土地を探すためにセントラル・オタゴへと向かい、1992年、希望に叶う土地をバノックバーンに見つけた。クロムウェルから畑へと続く道の名前でもある「フェルトン・ロード」の畑はこうして誕生した。その間、ブレアはニュージーランド、オーストラリア、ナパ・ヴァレー、オレゴン、ブルゴーニュでヴィンテージを経験する。畑でブドウが実るようになると、エルムズはブレアに連絡をとり、1996年、ブレアはフェルトン・ロードに参画した。ブレアはワイナリーの設計やビジネスプランの作成にゼロから取り組み、海外での経験を元にしてファインワインを造るために必要不可欠な条件を着々と整え、今日に至る。ワインメーキング以外では、40歳でパイロットの資格を取得。また持ち前の機械への興味が高じて、ワイカトの実家の車庫に何年も眠っていた家族の最初の車、メッサー・シュミットのバブルカーを自分で修理した。◆ オーナー ナイジェル・グリーニング(Nigel Greening)オーナーのナイジェル・グリーニングを一言で紹介するならば「フェルトン・ロードのワインが好きなあまりワイナリーを購入した人」と、ブレアは言う。しかし、マーケティング・スペシャリストの英国人がなぜ地球の正反対に位置するニュージーランドへ、しかも世界最南端のワイン産地セントラル・オタゴまではるばるやって来たのか。ナイジェルの尽きることのない、わくわくするような話から、彼にとってフェルトン・ロードとはつまり夢であり愛してやまない2つのこと― 好きなワインを好きなニュージーランドで造る ―を具現化した結果であることが分かる。ナイジェルは1998年、ついにフェルトン・ロードにほど近い、2つの川が交差する川辺に突き出たコーニッシュ・ポイントの土地を購入した。そしてフェルトン・ロードのエルムズに教わりながらブドウ栽培を始め、2000年にエルムズがフェルトン・ロードの売却先を探していると聞くと、すぐさま手を挙げた。自らの所有するコーニッシュ・ポイントとフェルトン・ロードの畑・醸造所・醸造家(ブレア・ウォルター)という組み合わせがナイジェルの夢を早々に叶えたわけだが、その後フェルトン・ロードが急成⻑したのは、ナイジェルの強靭な忍耐力とヴィジョンがあったからこそである。ブレア(左) とナイジェル(右)◆ フェルトン・ロード設立当時とその後初めて販売されたセントラル・オタゴのワインは1987年産のリースリングだった。オタゴのパイオニアたちは当初、ピノ・ノワール、カベルネ、シラーなど様々な品種のクローンや台木を植えていた。しかしエルムズがブドウを植え始めた1992年には、セントラル・オタゴに最も適した品種はピノ・ノワールであると広く知られるようになっていたので、彼はフェルトン・ロードでピノ・ノワール、シャルドネ、リースリング、ソーヴィニヨン・ブランの栽培を始めた。ブレア ――自分がセントラル・オタゴに来た1996年にはブドウ栽培面積はわずか200haだったが、20年後には2,000haにまで広がった。今でもオタゴには新しい畑が増え続けているが、グラン・クリュと称されるような限られた場所は誰かがすでに所有している。オタゴの栽培面積の8割はピノ・ノワールで、ピノ・グリ、リースリング、シャルドネと続いている。ナイジェル ――2000年にフェルトン・ロードのオーナーになったその夜、ブレアと一緒にビールを飲みながら、フェルトン・ロードの今後について2人で10年計画を書き上げた。ワイナリーは稼働効率のよいサイズであると同時に、我々がハンドクラフトワインの生産者でいられるくらい小さな規模である必要もある。生産量は年間400樽、12,000ケースと決めた。それから10年後、再び将来の計画を話し合おうとしたら、なんとブレアは10年前のその同じ紙をテーブルに置いた。我々は当初の目的を達成し、その後もプランを変える必要はないと感じたわけだ。それまで通りに続けていくだけだね。ブレアは、畑とワイナリーでの20年以上にわたる取り組みについて語る。◆ 畑での25年フェルトン・ロードを設立した当時、ニュージーランドではさまざまなクローンと台木を買うことができたので、エルムズはいろいろと試みた。当時、オタゴではまだフィロキセラは生息していなかったので、自根で樹を植えたものもあった。⻑年かけて、フェルトン・ロードのクローンは、多様性に富む面白いものとなった。最も気に入ったクローンが2つ、二度は植えなかったものが2つ、その他6-8種のクローンは複雑味を加えてくれる。オーケストラの交響曲を聴くのと同じで、いくら好みであっても2つのクローンだけでは木管楽器だけを聴いているようなもの。より幅広いクローンの組み合わせにより、深み、複雑さ、繊細さが生み出される。農地は生きる生態系そのもの。畑での作業は自分たちの価値観やスタイルに合致するやり方で取り組んでいる。有機栽培は自分たちが目指す品質のワインを造るためにやるべきと思うからやっているのであって、宣伝のためではない。ワインラヴァーは生産者がそうすることを当然と思っているから、有名な畑がバイオダイナミックでないと知ると、むしろ驚く。バイオダイナミックは、自分たちにとって畑の環境を整えていく上でより積極的、活動的に対応できるツールの一つと位置づけている。25年経つと当然ブドウの個性も変わるし、畑とその変化をいかに表現するかについての我々の知識も深まっていく。自分はこれを「心地よい成⻑」と呼んでいる。植えつけ当初はブドウにとっても新しく厳しい環境で、氷河によって形成された川、乾燥した気候、真夏の⻑い日照時間、収穫時期の寒い夜などに強制的に晒される。年月が経つと、ブドウは環境にすっかり溶け込み、また我々自身もブドウ樹と対話できるようになる。一般的に、ニュージーランドの果実は強い品種特性と冷涼な夜間のインパクトによって風味が凝縮し、時には強すぎるとも言われる。しかし、樹齢が高くなると果実味は落ち着き、丁寧に育てればその土地らしさ、ミネラリティを表現するようになる。それは果実を通じてワインに現れ、より緻密、複雑さ、フィネスが備わる。フェルトン・ロードだけではなく、15-25年前に植えられたオタゴの他の畑でも、樹齢が高まるにつれ、ワインには複雑さが現れている。エルムズ・ヴィンヤードコーニッシュ・ポイントカルヴァ―ト◆ ワイナリーでの20年ワイナリーの設計に際してはブドウの質と個性をワインに取り込むため、果実をできるだけ優しく扱い、醸造における出来る限りの介入を避け、自分が世界の銘醸地で経験した最良の方法を取り入れ、その土地と樹齢からもたらされる複雑さを表現するように努めた。各地で様々なことを学んだが、ブルゴーニュでは多くの蔵元で何世代にも亘って家族が従来通りのやり方を継承していた。ワイナリーで余計な手間をかけることのない、シンプルかつ伝統的なやり方は尊敬に値する。ニューワールドでは何もないところから始まっているため、フェルトン・ロードが経験するのと同じ課題に一つ一つ取り組んでいた。特にオレゴンは多くのワイナリーが、我々同様、年間生産量10,000-15,000ダースの規模だったので、最も多くの影響を受けた。ワイナリーでは、これまで大きな変更はしていない。この13年間、すべて自生酵母で自然発酵させている。セラー内に棲みついている健康的な酵母とフェルトン・ロード特有の果汁が個性を生み出す。ピノ・ノワールは3割を新樽で熟成している。オーク樽は21年間、ブルゴーニュのダミー社製のものを使用している。同じメーカーの樽を使うことは、フェルトン・ロードのスタイルを一貫して維持するためにも大事なことである。樽の焦がし度は、ソフトで繊細なミディアムトースト。昨年11月にブルゴーニュでダミー社の人たちと一緒に食事をしたが、彼らは⻑年の付き合いから我々がオーク樽に何を望んでいるかをよく理解している。フェルトン・ロードのよいシャルドネにとって、樽は敵。果実に閉じ込められた、畑がもたらすミネラル感と塩っぽさを引き出すため、フェルトン・ロードではシャルドネに旧樽しか使わない。その結果、樹が若い時は芳醇な果実が表現され、樹齢が高まるにつれスパイスやいくつものアロマの広がりが出てくる。現在、フェルトン・ロードではピノ・ノワールが7割、シャルドネが2割、ドライとオフドライ・リースリングが1割を占める。発酵中のピノ・ノワールバトナージュ作業◆ セントラル・オタゴにおける気候変動地球温暖化の課題の一つは急激な気候変動だが、それはセントラル・オタゴでは昔から起きていることなので、我々にとっては変化というほどではない。最低気温は年々上昇し、それは畑の植物の成⻑サイクルに影響している。冬は以前ほど寒くなく、オタゴの水力発電用ダムが凍ることもこの数十年ない。昔は冬にはアイススケートやカーリングが盛んだったけれど、その機会も少なくなった。芽吹きの時期が早まり、収穫も過去に比べて2ー3週間早まった分、ヴィンテージが天候不順の影響を受けることは少なくなった。とはいえ、今年(2017年)は非常に寒く、春の開花と結実の不良に夏の天候不良が重なり、収量は3割落ち込み、2007年以来の不作となった。◆ さらに高まる評価今年3月、世界のトップクラスの酒類業界関係者(マスター・オブ・ワイン、ソムリエ、買い付け業者、ワインエデュケーター、ジャーナリスト)200人以上が投票する”Drinks International”誌主催の「賞賛すべきワインブランド(TheWorldʼsMost Admired Wine Brand)2017」で、フェルトン・ロードは13位にランキングされた。ナイジェルとブレアは、極めて小さなブランドでまだ歴史も浅いワイナリーに対するこの評価に戶惑いながらも、謙虚に受け止めている。<ヴィレッジ・セラーズより>ヴィレッジ・セラーズがフェルトン・ロードのワインを取り扱いたいと最初にワイナリーを訪ねたのは1999年9月。まだ10代前半の娘二人を連れ、ニュージーランドへスキーに行った時だった。子供たちをスキー場に残し、車で1時間ほどのフェルトン・ロードを訪ねると、若いブレアが畑と一部完成していたワイナリーを案内してくれた。彼は、フェルトン・ロードは売りに出されていて、誰にワインを輸出するかはオーナー次第と語った。急いでスキー場に戻る途中、スピード違反でつかまり悪い予感がしたものの、ヴィレッジ・セラーズを選んでくれたナイジェルとブレアには深く感謝している。