◆ ワインとの出会い―― 私自身はリスボン生まれのリスボン育ちで、母は歴史の先生、父は大学で教えていました。母はアレンテージョ、現在フィタプレタのワイナリーがある場所から10Kmほどのところが生家です。父は北大西洋のほぼ中央に位置するアソーレス諸島サン・ミゲル島生まれで、光化学、特にアントシアニンの研究に長年携わっていました。 子供の頃から1年のうち数ヶ月は、いとこ達とアソーレスの島で一緒に過ごしていたので、大学では海洋学か海洋生物学を専攻しようと考えていましたが、父の友人の一人に感化され、まずはアグロノミー(作物栽培学)から始めることにしました。ブドウ栽培に興味を持ったのは、大学2,3年の時にブドウ栽培の大家で近現代のトレリス・システムに精通したロゲリオ・デ・カストロ教授に師事してからです。 まだ在学中の2001年、研修で5ヶ月間ナパのメリーヴェイル・ヴィンヤーズに行きました。それは学校で本から学ぶことと大きく違い、とても面白い経験でした。その時、オーパス・ワンの最初の12ヴィンテージの醸造にかかわったとして知られるチャールズ・トーマスと知り合いました。彼は常に実験を繰り返していて、何を聞いても実証的に答えてくれ、「ブドウの状態が良く、しっかり熟していれば、何の問題もない」が口癖でした。 彼の元で働きたいと思い翌年、再びナパに戻って働きながら「グラヴィティ・フロー対 ポンピング」で卒業論文を書きました。その後働いた南オーストラリアのダーレンベルグでは、それまでの経験とは真逆の醸造方法にも関わらず素晴らしいワインが造られており、驚くと同時に醸造にはいろいろなやり方があることを確信しました。またボルドーのシャトー・ランシュ・バージュでも働きましたが、経験を積むうちに、いつかお金を貯めて自分のワインを造りたいという夢を持つようになりました。◆ 最初のワインとその後の4年間―― 醸造に関しては大学で多くを経験しましたが、栽培の経験をさらに積みたいと思っていました。そのような時、イギリス人の栽培コンサルタント デヴィッド・ブース氏と出会い、彼について日々数ヶ所のクライアントを回るようになりました。多くを学ぶ素晴らしいチャンスでしたが、同時に自分にはコンサルタント業は合っていないと分かりました。そこで、デヴィッドが選んだ畑から収穫したブドウを私が醸造するという共同プロジェクトを彼に持ち掛けました。17歳年上のデヴィッドは初めは躊躇していましたが、徐々に一緒にワインを造ることに同意、2004年、共同で造ったワイン「プレタ」をリリースしました。グラヴィティ・フローのワイナリーを借り、デヴィッドが選んだアレンテージョ地方中央部セラ・ドッサ山麓の畑で細心の注意を払って育てられた果実を細部までこだわりながら醸造。プレタの初ヴィンテージは、インターナショナル・ワイン・チャレンジのベスト・アレンテージョワイン賞を獲得しました。出だしはよかったのですが、その後の4年間はひたすら仕込みに専念すると同時に、経営危機の回避に追われました。◆ テロワールを表現するワインの追求―― 土着品種や歴史的な醸造方法についてより深く研究する余裕ができたのは2010年頃からです。父の故郷アソーレスでは、地元の土着品種の保護団体が当時89株しか残っていなかったテランテス・ド・ピコ(Terrantez do Pico)という品種を4年間で2,500株まで増やすことに成功、2010年、私はこの品種で最初のワインを造りました。このプロジェクトは、私にアレンテージョの土着品種ワインを造るきっかけをくれると同時に、そのための手段、つまり遺伝子や品種の起源、土着品種の使われ方やブレンド方法を研究する必要性、さらには自分が「コレクティヴ・メモリー(集合的記憶;コミュニティの人々の中に共通して存在し、受け継がれる記憶や知識)」と捉える「伝統」とのバランスの必要性を教えてくれました。 アンフォラを使って仕込む白ワイン「ブランコ・デ・ターリャ」は、カルフォルニアのワイナリーでコンクリート・エッグを見て、思いつきました。アレンテージョではすでに行われていたことだと閃いたのです。ここでは1906年から1970年代まで、地元の粘土を蜜蝋や松ヤニといった昔ながらの材料でコーティングしたアンフォラをワイン醸造に使っていました。この手法を再現し、アレンテージョらしさを表現に加えました。これもテロワールの一部と思っています。 テロワールを表現するため自然発酵にもこだわっていて、白ワインは満足できるものになるまで3-4年かかりました。今ではテロワールを忠実に表現するワインができていると思います。ブドウの酵素の特性を利用し、発酵が終わるまで亜硫酸を使わないことで納得のいくワインが造れるようになりました。 アレンテージョには量産ワインのイメージがあるかもしれませんが、歴史を遡ると必ずしもそうではありません。中世にはフランスの商人が高級ワインを買いに来ていた記録があり、産業革命以降の万国博覧会ではアレンテージョワインが受賞しています。元々はライトボディのエレガントな赤ワインが主流でした。1970年代にEU(当時のEC)に加盟し、域内輸出のために当時のニーズに応じて濃厚な色調の完熟スタイルで造ったことがこうした印象に繋がったのです。 今土着品種の復活に力を入れていますが、そこにたどり着くには幾つかの難問があり、そのうちの一つがコレクティヴ・メモリーとのバランスです。ワインの例ではありませんが、かつて手編みの絨毯で有名だった町の工芸を復活させようと、古い絨毯を色素分析して当時の染料の色を再現したところ、地元の人はすでに色褪せたものしか見たことがなかったため「これは私たちの工芸ではない」と言った、といいます。ワインの世界でも同じような壁にぶつかる時があります。例えばティンタ・カルヴァーリャは、ブレンド比率が高いとワインの色が薄くなり、それが理由でアレンテージョDOCとして認められません。この地方のブドウは元々軽やかなものが多かったのに、です。このような誤解を解いて、歴史ある品種を守っていきたいです。◆ 単一畑「シャォン・ドス・エレミタス(Chão dos Eremitas)」の表現―― シャォン・ドス・エレミタスは1969-70年にかけて植えられた畑で、2018年に取得しました。全33haのうち2/3は私たち、残り1/3はこの畑を植えた人の子孫の所有です。一部の白品種の混植を除いて、希少な土着品種が品種別に畝に植えられています。混植部分も品種こそ混ざっていますが、整然と一列に植えられているフィールド・ブレンドです。どの樹も太い曲がりくねった幹を持ち、美しい盆栽のようです。 シャォンは平地、エレミタスは修道士たちを意味する名前で、かつて聖パウロ修道会の修道士によるブドウ畑があった場所です。少なくとも10-11世紀頃から、このあたりで長い間ブドウが栽培されていたことは分かっています。紀元前8世紀頃のものと思われる白ブドウの種が入ったフェニキアのアンフォラも発掘されています。だからといって、その時代に必ずしもここでワインが造られていたとは限りませんが、少なくとも良質なワインがこの地域にも届いていたことを意味します。内陸の低地で良質ワインが造られていたことは知られています。1397年には法王の勅令で、ここのブドウ畑には税金がかかりませんでした。残念ながら税金免除は今ではありません。この場所は、ブドウ栽培に理想的な条件を備えています。当初、アレンテージョでワインを造りだした時は、暑くて乾燥した土地ですから灌漑された畑のブドウを使っていたので、樹勢を抑え、ワインの色も濃くならないよう、苦心していました。しかしシャォン・ドス・エレミタスは、以前から全く灌漑されていない畑です。標高650mのセラ・ドッサ山脈のすそ野、標高250-260mにあり、山から流れ込む2つの水脈が畑の地下を流れていて、その水面は地下5-7mと浅いところにあります。そのため、低地と比べて2倍の水量がもたらされます。また、この畑は土壌も非常に恵まれています。セラ・ドッサの山の北斜面はアルカリ性のシスト土壌、畑がある南側一帯は酸性の花崗岩ですが、ここは川が運んできた沖積土壌でアルカリ性の石灰岩が多く含まれるため、中性に近いpH7.2-7.4で、植物栽培に適しているのです。トリンカデイラ・ラス・プラタス (シャォン・ドス・エレミタス) 畑を取得してからまだ日が浅いので、ここから学ぶことはまだまだあります。アリカンテ・ブランコやティンタ・カルヴァーリャを単一品種で造っている生産者は自分たちだけですが、味も香りも忘れ去られてしまった希少な土着品種は、まずは単一品種としての特徴を学ぶところから始まります。果実の特徴を最大限活かすため、収穫のペストなタイミングや醸造方法を研究し、そして学んだことを次のヴィンテージに反映し見直します。同時に、他の品種との混醸、ブレンドなども試みています。シャォン・ドス・エレミタスからのワインの初リリースは2018年ですが、ヴィンテージを重ねながら、この畑の可能性を探っています。ティンタ・カルヴァーリャ(シャォン・ドス・エレミタス)◆ フィタプレタにとっての進化―― フィタプレタのワインは独自のスタイルに囚われることなく、市場に合わせ、常に進化の過程にあります。私にとっては、何世代にも亘って人々に記憶され、今日まで続いている文化―つまり伝統は、科学と同じように大切で強力なものです。科学はまた違う側面を照らしますが、文化的な伝統と科学は互いに否定しあうものではなく、共存できると思っています。その土地で何世代もに亘って人々の間で培われてきた伝統と歴史、科学を融合し、そのテロワールを最高に表現できるワインを造っていきたいと思っています。