ジェフリー・グロセットのブドウ畑とワイナリーにおける献身的ともいえる仕事ぶりはこれまでの数々の受賞や高い評価からもよく知られています。1998年には『グルメ・トラベラー・ワイン』誌の初代「オーストラリアンワインメーカー・オブ・ザ・イヤー」を受賞、同年「インターナショナル・リースリング・ワインメーカー・オブ・ザ・イヤー」にも輝きました。また⺠間のオークションに基づくオーストラリアワインの格付け評価「ラングトンズ・クラシフィケーション VI」では、最高位「エクセプショナル」にランクされる白ワインは3アイテムのみですが、グロセットのリースリングがその一つに位置づけられています。このインタビューでは、ジェフリー・グロセットという人物がワイン界の多方面にいかに大きな影響を与えてきたかという点にフォーカスしました。彼は人生の岐路でなぜそうするのか、あるいはそうしないのかという選択の余地があるときには常に、より興味をそそられ、そしてまだ誰も足を踏み入れていない道を選んできました。私たちがワインをより楽しむためにジェフリーがどれだけ寄与したのか、その貢献の大きさを本当に理解するには、年を重ねて美しく熟成するグロセットのワイン同様、時間が必要だったと言えるでしょう。◆ ワインの世界に入るきっかけジェフリー――15歳の時、アデレード(南オーストラリア州の州都)に住んでいた。ある日父が買ってきたワインを少しだけ飲ませてもらい、その味に完全に魅了された。シェリーのような強い味ではなかったので、おそらくテーブルワインだったのだろう。15歳なので何が違うか分からなかったが、とにかく自分もワインを作りたいと思った。16歳の誕生日を迎えるとすぐにローズワーシー・カレッジに入学した。すぐ入れたので、当時のレベルはそれほど高くなかったのだと思う。ブドウ栽培を専門とする農学を3年間を学び、次に2年間醸造学を専攻した。21歳になるまでに5年間の高等教育課程を修了し、それからヴィクトリア州グレート・ウェスタンにあるセッペルト・ワイナリーで働いた。そこではグレート・ウェスタンだけでなく、ドラムボーグやパザウェイといったヴィクトリア州の地域のブドウも扱っていたので、ブドウの違いを実際に知るには最高の場所だった。セッペルトでいろいろな経験を積んだ後ドイツへ渡り、1シーズン働いた。帰国後、ミルデューラ近くにあるリンデマン社のカラドック・ワイナリーに入社、26歳でチーフ・ワインメーカーに抜擢されたが、普通なら自分より2倍も年上の人が任されるようなポジションだ。オーストラリアワイン業界がそれだけ急速に成⻑していたからで、自分はちょうどよい時にちょうどよい場所にいたということだ(オーストラリアでは1976-1986年の間にワイン消費が56%増加した)。醸造チームに醸造家は5人いて、皆私より若かった。ワイナリーには驚くような新しい設備があり、そこで一日に1,000tのブドウを仕込む。本当に素晴らしい経験で、多くを学んだ。リンデマンでは国内総生産量の2-3%にもなる、ありとあらゆる種類のワイン――カスクに入った白ワイン(リースリング、ホワイト・バーガンディ、シャブリ)、瓶に入った安ワイン、赤ワイン、そして白はBen Ean(1970年代にオーストラリアで最も売れていたやや甘口タイプのモーゼル)やBin 65シャルドネまで――を造っていた。ジェフリー・グロセット: 1981 年、グロセット・ワインズの初ヴィンテージにて◆ クレア・ヴァレーに移った理由1981年、私は本当に質の高いワインを造ることに注力したいと考えていたので、リンデマン社を離れ、クレア・ヴァレーに移ることを決めた。理由はクレア・ヴァレーがすでに最高レベルのリースリングや優れたカベルネ、少量ながらも良質なシラーズを生み出す可能性を持つ産地であることが知られていたからだ。リースリングは大きな可能性を秘めた素晴らしい品種だと私は思っていたが、他の伝統的なワインほどには注目されている品種ではなかった。ちょうど古い石造りの乳製品加工工場があり、2万ドルという破格の値段で競売にかけられていた。そこを買い取り、当時の限られた予算内でワイナリー兼自宅にリフォームし、クレア・ヴァレーでワイン造りを始めるチャンスを手にした。仕込むブドウに関しては、クレア・ヴァレーのウォーターヴェイル地区に最高質のリースリングが植えられていると聞き、ウォーターヴェイルのよく知られる畑へ行ってオーナーに自分の履歴を話すと、彼は「ここの、この区画のブドウなら君に売れる」と言ってくれた。以来、その同じ区画の同じ畝のブドウからワインを造ってもう20年以上になる。ガイアを剪定する様子その頃、クレア・ヴァレーのポーリシュヒル・リヴァーには2,3のブドウ畑があった。周囲の人からは、ポーリシュヒルはあまりにも不安定で、ある年は素晴らしいブドウを得ることができてもそれが3年続くこと期待できないから避けた方がよいと助言された。けれどポーリシュヒルに小屋とその後ろに広がる約1haのブドウ畑を持っている研究者の友人が、「そこを整備したいなら畑をあげるよ」と言ってくれた。ポーリシュヒルの土壌は頁岩と粘板岩を痩せたシルト(粒の粗い粘土)が覆うもので、自分の学んだブドウ栽培学から言えば、ここは絶対に畑に選んではならない場所だな、と思ったことを覚えている。実際はそうではなかったのだが。それでポーリシュヒル・リヴァーの畑の世話をしてみることにし、樹を剪定して、枝を仕立てた。もしうまく行かなかったとしてもそれほどリスクのあることでもなかったのだ。◆ テロワール︓ まずはワインを造り、説明はそれから当初は、ただクレア・ヴァレー産のリースリングを造ることを考えていた。しかし最初の年にウォーターヴェイルとポーリシュヒルのワインの違いを見て驚くとともに、その違いを人々に知ってもらいたいと思った。ウォーターヴェイルは芳醇でより古典的な味わいであるのに対し、ポーリシュヒルは最初は果実味は控えめだが、味わいに非常に持続性があり、ずっと舌に残る。当初は2つのリースリングをブレンドするつもりだったが、うまく馴染まなかった。最初のころのポーリシュヒルは何か目新しく物珍しいもので、それが後々いかに特別なワインとなったかということには今でも驚いている。目の前の2つのグラスのワインに専門家でなくても分かるほどの違いがある、それを皆に知ってもらいたい、というのが当時の気持ちだった。そしてその明らかな違いは”なぜ︖”に続く。醸造方法にそれほど大きな差異はない。では、他にどんな理由が︖どう考えても栽培された場所に起因しているとしか思えず、それは何とも素晴らしく面白いことだった。今、こういった2つのグラスのワインの違い、同じ産地からの全く異なったワインを一言で表現する場合に「テロワール」という言葉が使われる。我々がこの、特定の区画、畑の方角、土壌、気候のユニーク性を表現するフランス語の概念に慣れ、自分の語彙の一部とするまでには⻑い時間がかかったが、当時、私は畑とそこで収穫されるブドウの持つ力にただただ感銘を受けていた。最近では、この2つのワインの違いはずっと説明しやすくなった。ここにスプリングヴェイルとポーリシュヒルの2つの畑で2016年の同じ日に摘み取った、同一クローン、熟度のレベルも同じブドウの房の写真がある(→)。スプリングヴェイルとポーリシュヒルの2つの畑で2016年の同じ日に摘み取った、同一クローン、熟度のレベルも同じブドウの房スプリングヴェイルの房は中サイズでかなり明るい緑色、ポーリシュヒルの房はスプリングヴェイルの半分ほどの大きさで、色は⻩色がかり、まるで健全に見えない。重量もポーリシュヒルの房はスプリングヴェイルのおそらく半分以下だ。人々にこの写真を見せると「この2つのブドウでは、もちろんワインの味わいは違うものになりますね」という。テロワールの話になると、人は「それが何か説明するのは難しい」というが、私がいま実際にしているように、写真を見せ、それからワインを見せれば、それが「テロワールとは何か」ということの説明になる。その違いは専門家でなくとも分かるでしょう。ポーリシュ・ヒルスプリングヴェイル◆ リースリングの定義︓ 自己主張できなかった品種1993年オーストラリアにラベル表示法が導入された際、それは世界でも最も基準が厳しいものの一つと見え、私自身もオーストラリアワインの評価と品質の保持のため非常に優れた法律ができたと思った。ところが、ラベルに品種名を表示する際の最低基準が設定された文章に続いて但し書きがあり、「リースリングにおいては、「リースリング」という単語は品種としてではなく、ワインのスタイルとしてラベルに表記する場合は、例外とする」と書いてあった。オーストラリアの代表的なワイン評論家で弁護士でもあるジェームズ・ハリデーに見せたが、彼もこの条文を信じられなかった。これがオーストラリアワイン業界全体を犠牲にして1、2の大手企業だけに利益をもたらす内容であることは明らかだった。そこでオーストラリア各地のワイナリーにアンケートを送り、大多数のワインメーカーが修正を要望する嘆願書に署名した。それが功を奏すと期待したが、しかし結果は何も変わらなかった。それから7年後の2000年、オーストラリアの公共放送局ABCニュースが私に電話で「ラベル表示法を正確に反映していないオーストラリアワインが輸出されていると思うのですが」と言ってきた。だが、このラベル表示法には矛盾があることを踏まえておかなければならない。何かコメントは︖と聞かれ、自分が言うべきことを考えた。「政府は1、2の大企業のためにオーストラリアワイン全体の評判を傷つけようとしているようだ」。ABCニュースの担当者に「こういうコメントを期待しているの︖」と言うと、彼は「まさに︕」と答えた。その夜このニュースは報じられ、法律はすぐに変わった。この間、告訴するぞという脅しも多々あり、大変な思いをしたが、とにかく法律の改正という結果は得られた。つまりラベルに「リースリング」と表記したワインの原料がリースリング種のブドウでなければならなくなったのは2000年以降で、それまでは単に味わいのスタイルとして誰でもリースリングを使う口実があった。◆ スクリューキャップ︓伝統との真っ向勝負1999年当時、クレア・ヴァレー醸造家協会の議⻑を務めていたアンドリュー・ハーディ(ペタルマの現シニア・ワインメーカー)はかなり現実的な人で、彼が「ここにいる中でコルクに問題を抱えている人は︖」と質問を投げかけると「コルクに関してはいつでも問題がある」というのが皆の答えだった。私の意見はこうだ。「栽培と醸造においては、我々はコントロールという意味でかなり高レベルに到達できている。品種特性を純粋に表現するピュアな果実を収穫でき、そのブドウから造ったワインには畑の場所や区画の特⻑をきれいに示せていると思う。ただし出来たワインを瓶詰めした途端、コントロールを失う。コルク栓の質によってせっかくのワインを危険にさらすリスクがある」。コルク栓には昔から欠陥が付きものだが、それでもかつてはコルクが最良の選択肢だった。でも今は、欠陥のない新しい技術を使えるチャンスがある。アンドリューは「とにかくやってみよう」とあっさり言い、彼が主な旗振り役となってスクリューキャップへの転換が始まった。このアンドリュー・ハーディとアンドリュー・ミッチェル、私のパートナーでマウント・ホロックス・ワインズのステファニー・トゥール、そして私の4人を主要メンバーとして、今後どのようにスクリューキャップを広めていくか考えることになった。スクリューキャップへの転換はワインの質への一層の配慮から行なうことで、ワインを買ってくれる人たちのことを考えているからこそであり、こういった意図は、我々のスクリューキャップワインを飲んでいただければいずれ分かるということを皆に説明する必要があった。オーストラリア国内のガラス工場へ行き、「スクリューキャップを使いたいが、安ものに見られたくない。非常に質のよいワインが入っているように見せたい」と話したが、グラスメーカーはそれほど乗り気ではなかった。それで優れたボトルメーカーであるフランスのサヴェルグラス社を訪ねた。彼らは典型的なフランス人で、「私たちはスペシャリストですからできますよ......価格はそれなりになりますが」と言った。面白いことにオーストラリアで開発されたスクリューキャップ栓の知的財産権を所有しているのは、フランスの大手金属メーカーであるペシネー社だった。ペシネーにも行って交渉し、承諾を得た。我々はペシネーのデザイン、キャップの形状、フタ裏の保護フィルムの使い方を微調整した。キャップはしっかりと堅く、漏えい性が低いと同時に、多くの人が気付かない程度のごくわずかな透過性を持つ。これはうまく機能し、スクリューキャップの世界標準になった。そして2000年までには、スクリューキャップでの瓶詰めラインを稼働させていた(現在、オーストラリアで瓶詰めされる98%の白ワインにスクリューキャップが採用されている)。《ヴィレッジ・セラーズより》2005年、ジェフリー・グロセットも編集者の一人である『Taming the Screw』(スクリュー馴らし、タイソン・ステルザー著)が出版され、日本でもオーストラリアワイン事務局(現ワインオーストラリア)主催でセミナーが開催されました。グロセットは、コントロールできないリスクの発生率を抑えるという危機管理からスクリューキャップを選んだ訳ですが、セミナーではコルクに対する優位性ばかりを強調するように通訳されたのは残念でした。それでも日本ではスクリューキャップの普及が他国に比べてかなりスムーズだったのは嬉しい限りです。