ジョージ・ヘンドリーは⻑年ブドウ栽培農家として、後には醸造家としてワイン造りに携わると同時に、日本を含む世界中の病院で使用されている医療用サイクロトロンの開発・設計・製造エンジニアでもありました。会話の中でジョージは、ナパ・ヴァレーの興隆に伴いブドウ卸売農家からプレミアムワイン生産者へと変貌する過程を生き残り、成功するための独自の科学的かつ合理的なアプローチを説明してくれました。温厚な根っからの紳士であり、指導的、啓発的といえるジョージの醸造に対する実用本位でありながらも優しいアプローチに、ヘンドリーの品質の高さと彼の洞察力の深さを見ることができます。◆ ヘンドリー・ランチの始まりジョージ・ヘンドリー――この土地は1939年に両親が購入たもので、当時、父はバークレーの教授だったが、本業を辞めなかったのは賢明だった。母も学校で教えていたが、ここで農業に専念することになった。この土地には小さなジンファンデルの畑があった。実際、ここでは1860年からブドウが栽培されていて、両親が来たとき、ブドウ畑は6エーカー(2.4ha)のみ、大部分は牛の牧場とプラムの果樹園だった。いろんなことが大きく変わり始めたのは1960年代になってからだ。人々はより辛口のテーブルワインを飲むようになり、ワインは食事と一緒に愉しむ飲みものになった。牧場とプラムの栽培が徐々に下り坂になる一方、ワイン用ブドウの需要が高まり、ブドウを栽培しなければ生き残れないことは明白だった。しかし、それは家族経営の農家には大きな方向転換となる。ブドウ樹を植え、ようやく実がなり、それをすぐ売るとしても、収入を得るまでには少なくとも7年の歳月が必要になる。ナパの小さな農場の多くは存続できなかった。これは、農場を引き継いだ自分自身の問題ともなった。私も父と同様、自分の本業を別に持っていたので、数年は牧場や果樹園を続けることができた。しかし1970年代に入ると、もはや現実を直視せざるを得なくなった。ブドウ栽培をしなければ、ここではやっていけなくなったからだ。ヘンドリー・ランチはサイクロトロンの本業からの収入でブドウ栽培に移行する7年間を何とか乗り切った。家族も協力的で、食卓に豆が多くなることに文句を言わなかった。ブドウ畑は当初の6エーカーから今は114エーカー(46ha)に、品種も3種類から11種類に増えた。自分はヘンドリー・ランチの2代目だが、3代目となる甥も一緒に仕事をしているし、今は小さな4代目も生まれ、家族は健在だ。ジョージ・ヘンドリー(左)1939 年、幼少時代のジョージ・ヘンドリー(右)と兄(左)、⽗親◆ カリニャンからカベルネへ ブドウ品種の変遷もともと、ここにはジンファンデル、カリニャン、プティ・シラーが植えられていた。今のジンファンデルは、ここを買ったとき既に植えられていた樹ではなく、新たに環境に適した場所で非常にうまく育っている。カリニャンとプティ・シラーは、禁酒法時代に東部のホームワインメーカーが密かにワインを造るためだけの卸売用ブドウで、どちらの品種も果皮が厚く、ブドウの実を貨物列車に乗せてもまったく損傷することなく東海岸に運ぶことができた。今ここナパではカリニャン、プティ・シラーはお金にならないので引き抜かれた。1960年代後半になってナパではブドウが重要視されるようになり、それは主に赤ワインで、多くはジンファンデルだった。80年代に入って白ワインが好まれるようになり、ナパでは急速に栽培が拡大したが、その多くはシャルドネで、2000年頃までは白ワインが主流だった。ヘンドリーでは1972年にジンファンデルをたくさん植えたが、1980年頃になってジンファンデルの市場が悪化し始めた。実際、ジンファンデルのワインの多くは粗悪でアルコール度が高く、残糖があり、消費者が敬遠したのだ。そこで私はジンファンデルを残しつつもシャルドネとカベルネに植え替えた。1990年までヘンドリーの主流品種はシャルドネだったが、変化の兆しが見られたので、カベルネをもっと増やし始めた。ナパでは2003年以来、シャルドネよりもカベルネがずっと多く造られるようになった。ヘンドリーの畑には今もシャルドネとジンファンデルがあるが、畑の半分以上はカベルネだ。ここではカベルネの栽培はうまくいっている。ナパ・ヴァレーは均一的な栽培地域ではない。サンフランシスコ湾のちょうど北に位置するカーネロス南部は非常に寒く、カベルネはほとんど熟さない。ヘンドリーはその少し北の丘陵地にあり、カベルネが熟す30°Cまで気温が上がる。ここより北のオークヴィルでは気温は35°Cまで上昇し、カベルネが多く植えられているが、暑過ぎるのでシャルドネとピノ・ノワールは育たない。ナパ・ヴァレーの中間部に位置する我々の畑ではすべての品種を育てることができるので恵まれている。畑では11の異なる品種を栽培しているが、それはビジネスの観点からもよいことだ。当初、ヘンドリーではブドウを沢山栽培し、他のワイナリーに売っていた。最大の顧客がロバート・モンダヴィで、他にウィリアム・ヒル、ローゼンブルム・セラーズ、オーパス・ワンがいた。しかし、1990年代に入ってナパの土地はとてつもなく高騰し、1エーカーあたり30,000ドルまで跳ね上がった(現在はブドウを植える土地を買うのに1エーカー当たり300,000ドルかかる)。畑が生み出す利益率は5%にまで落ちてしまったため、投資に対してより利益を上げる方法として、自分でワインを造ることにした。それまで⻑年、他の人のためにブドウを栽培してきたのだから、今度は自分でワインを造ってもいいだろう。というわけで醸造設備に投資することになり、それは非常にうまく機能している。今でも一部のブドウは他のワイン生産者に売っている。ヘンドリーのブドウの収量は約350tで、そのうちの約100tが他のワイナリーへの販売に向けられる。◆ 畑での質を高める実践的アプローチ最初にはっきり申し上げると、ヘンドリーでは非常に古い畑が良いワインを造る最良の方法だとは思っていない。問題は樹は年をとるにつれ、より健康になるわけではないことで、人間と同じだ。もし畑に病気の樹が数多くあるとすると、そのブドウからは軽やかなスタイルのワインを造ることになってしまう。ここにも樹齢45年になる畑があり、ワインを造っているが、それらの畑は手がかかる。トップクオリティのワインを造り続けるには 、樹が病気になったらそれを引き抜き、新しいものに植え変えなければならない。植え替えの間はワインの生産量が減るため、畑のコストは高くついてしまう。なので採算があわなくなったら、区画全体を植え替えることにしている。ヘンドリーの畑は46区画に分かれていて、小さい区画は約1エーカー(0.4ha)、大きい区画は約5エーカー(2ha)だ。それぞれの区画からワインがどれだけ造れるか、すべての区画ごとに記録をつけていて、毎年1-2区画は植え替えを行っている。当然採算性の高い区画の植え替えをする必要はなく、年中それにかかり切りというわけではないので、ワイナリーの従業員は他にも多くの仕事をこなしている。ここでは、私たちと一緒に12人のフルタイム従業員が、ブドウ樹の定植からワインの瓶詰めまで、すべて自分たちで行っている。皆、ワイン造りに必要な全ての仕事をよく理解し、どの仕事もこなすよう訓練を積んでいる。彼らの平均勤続年数は20年以上で、この敷地内に住んでいるスタッフもいる。私は彼らの働きを誇りに思っているし、我々はお互いに気遣い、支えあっている。畑に足を踏み入れればやることは山ほどある。ヘンドリーの畑の地図を見るとワイナリー付近を流れるレッドウッド・クリークの近くには、ピノ・グリやアルバリーニョのような白品種が植えられている。その周辺は保水性が高く、質の良いカベルネを造るのには適していない。ここでは多様な栽培環境を備えた土地に11品種のブドウを植えていて、マネージメントは容易ではないが、一度理解すると面白く、他にもっと自分に向いていることがあるようには思えない。◆ ワインの醸造とワインスタイルの進化私は大学生の頃から、かなりのめり込んでワインを造っていたので、学生時代からワインのスタイルや自分はどういうワインを造りたいか分かっていた。ワイン造りの方程式において最も重要なのは畑であることも非常に早い時期に学んだ。2級品の素材では美味しい料理ができないのと同じだ。ヘンドリーのワインスタイルはドライで、甘みのあるものは造らない。完全に熟したブドウのみを使い、未熟な実は使わない。アルコールはバランスがとれていることが大切だ。アルコール度はヨーロッパに比べると遥かに高いが、それはナパの日照量がヨーロッパよりもずっと多いからだ。私が選んだワインスタイルは、ビッグでリッチだが、同時に残糖はなく、しっかり引き締まっている。ブドウをしっかり熟させたうえで、その後発酵前に糖分を取り除く方法(*注)はフランスから学んだが、それは現在のナパ・カベルネの醸造における鍵となっている。40年前には全く知らなかったことだ。ワイン造りはブドウを摘み取る前から始まる。ボトルの中身の半分以上は種の成分が実際に大きく影響するので、特に赤ワインを造る場合、我々は種を味見し、完全に種が成熟に達するまで待つ。種まで熟した果実が得られると、ビッグで力強いワインを造ることができる。オークの使用は非常に重要で、オーク樽を使わずにワインを造ることはできるが人々が飲み慣れてきたワインのスタイルや特にビッグな赤ワインの価値においてオーク樽の貢献度は大きい。ヘンドリーではすべてのワインにフレンチオーク樽を使用している。ワイナリーにアメリカンオーク樽は一つもない。フレンチオークは果実味を乱さずに樽から多く抽出することができる。もちろんワインのスタイルは進化するもので、永久に留まることはない。まず1974年以来醸造技術は劇的に進歩している。60年代のワイン造りは非常に原始的で、コンクリートの発酵槽を使って粗悪なワインを造っていた。今では発酵槽から取り出されたワインは、恐らく世界最高のラボの一つであろうセント・ヘレナの試験分析所へ届けられる。そして、その日の午後4時までには、酸、残糖、pH、リンゴ酸、乳酸などの基本的な項目だけでなく、ブレタノマイセス(酵母)の胞子やペディオコッカス(ワインの汚染菌)などの厄介なものが低レベルでも検出されるかどうか、細かい分析結果が電子メールで送られてくる。ワイナリーではそれらの悪玉をすべて取り除くことができる。このような過去にはなかった技術が今はある。科学の力でワインの欠陥を取り除くことができれば、後は自分の味覚で進めていくことだ。ワイナリーヘンドリーのブドウ畑へンドリーは「美味しいワインは美味しいブドウから」という言葉が最もしっくりくる生産者の一人です。ジョージは10年以上前、一度来日しました。ゆっくりした口調で「ワイン造りは子育てのようなもの。子供に元々ないものを求めても無理なのと同じように、唯一出来るのはその畑が本来持っている資質を見極めて、それを最大限に引き出してやること」と話す姿、そして握手をしたときの彼の分厚い手と強い握力は忘れがたく、この人は本当の職人だと思ったことを今も鮮明に思い出します。