◆ ペンフォールズに入るマイク ―― 1963年、シドニー郊外のテンプにあったペンフォールズの瓶詰め作業所のラボがキャリアの最初です。私はシドニーのコガラ地区出身、The Kid from Kogarah(コガラの子)として英国でも有名な作家で評論家でもあったクライヴ・ジェームズと同じ通りに住んでいました。元々、化学専攻で電気工学も数年勉強しましたが、ワインとは関係ありませんでした。父親はビール党で、自分もビールは飲みましたが、母はアルコールはほとんど飲みませんでした。ペンフォールズには15年いました。その間に会社が当時バロッサ・ヴァレーにあったローズワーシー・カレッジの2年間の栽培醸造学コースに送ってくれました。終了後7年間は会社で働くという条件です。ローズワーシーは私の醸造家としてのキャリアに大きな影響を与えました。醸造における科学的な方法論を勉強しました。コース終了後はシドニーのペンフォールズに戻り、その後アッパー・ハンターに新しくできたワイナリーへ、さらに1973年、南オーストラリア州とニュー・サウス・ウェールズ州リヴェリナ地区の全生産を管理するプロダクション・マネージャーとして南オーストラリアに行きました。 アデレードではマックス・シューベルトと部屋が隣だったので会う機会もありましたが、私の直属の上司はマックスを継いだ主任醸造家ドン・ディターでした。アデレードではグランジ・ハーミタージ、BIN389シリーズ、BIN28など、ペンフォールズの素晴らしい赤ワインに魅了され、私自身、素晴らしいトレーニングを受けました。ドン・ディターは私にとっては恩師でもありました。テンプ時代の上司で、彼が私をローズワーシーに送ってくれ、彼からブレンドとテイスティングの基礎を習いました。彼が私の味覚を鍛えてくれたのです。そのようなトレーニングはお金で簡単に買えるものではなく、年月をかけて習得するものです。 今でも自分にはペンフォールズの血が流れていて、醸造はペンフォールズ流です。樽はアメリカンオーク、ブドウはシラーズが好きで、醸造はクラシックです。今ではカベルネ・ソーヴィニヨン、シラーズ、メルロ、少し前からはピノ・ノワールも造りますが。◆ ペンフォールズからミルダラ・ブラスへ、そして独立―― ペンフォールズが大手ビール会社トゥースに買収されると、ビールには詳しいがワインを全く知らない人たちが入ってきて、辞め時だと思いました。その直後、バロッサ・ヴァレーで長い歴史を誇る家族経営のセペルツフィールド社の主任醸造家として4-5年働きました。当時のセペルツの赤ワインの質を向上させるため、醸造技術を近代的なレベルに引き上げることが仕事でした。 セペルツの後、規模の大きな企業での経験が買われ、1984年から1988年まではバロッサの小さな蔵元クロンドルフにいましたが、ここがミルダラに買収され、新しいグループの主任醸造家としてまた大きな組織の一員に戻ることになりました。当初はよかったのですが、当時のミルダラの社長レイ・キングは1988年から1996年にかけ企業合併を繰り返し、イエローグレンなど20社ほどをグループに加えたので、一時は22人の醸造家をまとめなければなりませんでした。しかし、最後はやはり大手ビール会社です。ミルダラ・ブラスがビール大手のフォスターズに買収されるとなった時、今後は自分自身でできることをしようと決めました。今思えば、10年早くすべきでした。すべてを自分で決めてやっていくのは、とても満足できることです。アデレード・ヒルズの丘に広がる約35haの自社畑◆ ヴィンヤードの選定―― 当時はバロッサ・ヴァレーの南東の端、アデレード・ヒルズ近くにあるスプリングトンという小さな町に家がありました。醸造家ブライアン・クローザーが手がけるペタルマのおかげでアデレード・ヒルズも有名になりつつあった時です。ほぼ1年かけてあちこち見て回り、今の場所を見つけました。35ha弱の牧場だったところで、水利権もしっかりあり、なだらかな丘が続く土地です。基本的には北向きで東西方向にうねりがあるので、ブドウ樹の列は東西方向に植えることができます。値段もよかったので1997年に購入、1998年から99年にかけて毎年12haずつ息子とスタッフ1人、私の3人で畑を拡張しました。古いトラクター数台と杭打機を1台購入し、灌漑調査も行い適切に配置を決めました。当初はシラーズ、メルロ、カベルネ、その後シラーズとメルロを増やし全体で24haにしました。今ではシラーズとカベルネが6haずつ、ピノ・ノワールが3ha前後、メルロが3.2ha、ソーヴィニヨン・ブラン2ha、シャルドネ4haで赤4種、白2種の合計6品種から7-8種類のワインを造っています。 畑の土壌はとても均一です。丘のてっぺんは場所により少し石が多い土壌で多少灌漑が必要ですが、下層が粘土質土壌なので保水力はあります。灌漑はドリップ式ですが必要な時に適量をやるようにしています。大切なのは収量を増やすことではありません。自分の望むスタイルのワインを造るには私にとっては1haあたり8t前後の収量が最適です。シラーズは、たまには、生産量が多くとも素晴らしい品質になることがありますが、ピノ・ノワールは6tまで剪定してもまるで雑草のようにたくましく増えます。トラクターや収穫用の重機(グレープ・ハーベスター)のサイズに合わせてブドウ樹の株間2m、列の間隔は2.75mで設計◆ 品種やクローンの選定―― 基本的には、この地の気候に合う品種やクローンを植えています。ここはとても冷涼気候なので、霜害を避けなければなりません。この地で育つ品種か、自分が理解して判断できるか、そして市場が受け入れる品種か、です。息子はブドウ栽培に才能があり、ブドウ樹のバランスを感じ取ることができるので扱いやすいブドウを作ってくれます。自分たちがうまくやって来れているのはそのおかげです。新しい畑から始める利点の一つは、自分が計画している事業に合わせた設計ができることです。マイク・プレスでは当初から機械操業に合わせて畑を設計したため、ブドウ樹は列の間隔を2.75mとし、株間は2mとしました。当社では機械で剪定し、その後、油圧式または電動ハサミで揃えていきます。これによりコストを大幅に節約できます。 この畑は管理がしやすく、ヴィンテージ時期になると分刻みで作業が動きます。果実はすべて機械で収穫されます。収穫のレベルをここまでにするには時間がかかりましたが、手作業と同じくらいの品質の収穫ができます。ブドウ以外の物質は全く混ざらず、ザルや破砕機が付いていて、ブドウの実だけを収穫することも、実と一緒に梗を収穫することもできます。うちでは通常、白品種は夜に収穫しますが、暑くなり過ぎそうであれば、赤も夜収穫します。しかも1時間あたり1haの収穫が可能です。マイク・プレスでは1tあたり$100かそれ以下でどの品種も収穫できますが、手作業では$800かかります。収穫の様子◆ 栽培だけから醸造へ―― 自分たちの事業を始めた当初は、半分引退したようなもので、栽培したブドウを売って、後は休暇を楽しむつもりでした。しかしブドウが供給過多になり、1t作るのに$1,100かかったブドウが$400でしか売れなくなると、妻のジュディが「醸造家に戻るべきでは」と言ったので、2004年から栽培だけでなく醸造も始めました。当初はラベルなしのクリーンスキンで造り、近隣の郵便受けに広告を差し込みました。2006年になり自分たちの2005年のワインをアデレード・ヒルズ・ワイン・ショーに初めて出品すると、そのうちの一つがリリース後1年経過した赤ワイン対象の最高賞、ジミー・ワトソン賞2006のファイナリストに残ったのです。さらにシラーズ、カベルネ、メルロがそれぞれの部門でトロフィーを獲得しました。それまでうちのワインにはラベルもなかったので、受賞記念ディナー用に、一晩でラベルを作成して瓶に貼り付けました。それがマイク・プレス・ワインズの始まりです。◆ 醸造所について―― 今、自分たちのワインはマクラーレン・ヴェイルの醸造所ジェムツリーで造っています。ここは比較的新しいワイナリーで近代的な技術が揃っており、そこの醸造家は私がすること、また、やりたいと思っていることと考えがとても近いです。彼は常に最高のものを造りたいと思っている完璧主義者で、他の人のワインでも自分のものと同じに扱い、素晴らしい仕事をしてくれます。私たちが必要とするすべての機能を持っていて、トレーニングの方法や考え方が自分にとても近いので、何かを変える必要は感じていません。◆ 皆が絶賛する、品質と価格のバランスについて―― マイク・プレスの従業員は少ないです。一生懸命働き、金銭管理を細かくしています。同時に自分たちのワインを売るには宣伝も必要ですので、トレード向けには自分たちのマージンを削り、同時にアデレードでは顧客に直接販売しています。◆ 2019年11月の山火事による影響―― 家を失いかけました。私は州南東部の別の場所にいたのですが、息子がここで丘を越えて迫ってくる火と闘っていました。何が起きているか逐次電話で教えてくれていましたが、最後の電話は、「父さん、自分たちも避難しなければならない。これ以上ここに留まることはできない。恐らく家も畑も消失すると思う。周り中に火が迫っている」というものでした。 幸い家は残り、畑は端のブドウ樹0.2haほどを失い、その部分は灌木などもひどく焼けていましたが畑の殆どは被害を受けずに済みました。ブドウ樹の2-3列は焦げ、畑の端の細長い枕地、境界の柵、敷地内にあった$250,000相当の機材などに被害が出ました。トラクターが入っていた納屋も燃え上がるところでしたが、幸いなことに5000ガロン(約19t)の大きなプラスチックの水タンクがあり、納屋が燃え出すとそのプラスチックが溶け出し、爆発して中の水が炎を消し止めたのです。ここでは多くの畑が完全に消滅し、植え直しや灌漑のやり直しを迫られています。我々はそれに比べれば、ましでした。柵を直したり、枕地を直したり、水のタンクを再装備したりと、修復におよそ1年かかりましたが、大きな被害が出たとはいえません。しかし、火事の煙のせいで2020年の赤品種が全く使いものにならなかったことは痛手でした。ブドウの果皮は煙を吸収し、かなり不愉快な化学物質が出ます。赤ワインは果皮を一緒に発酵して色を抽出するので、問題はさらに深刻です。白は赤ほどひどく煙害を受けなかったので、ロゼ、ソーヴィニヨン・ブラン、シャルドネを造りましたが、果汁はすべてフリーランを使用、果皮との接触がより多い2番圧搾の果汁は使用しませんでした。その結果、2020年は、白は減産、赤は全く造っていません。畑に迫った山火事の跡(2019年11月)《ヴィレッジ・セラーズより》 最初にマイク・プレス・ワインズの名前を聞いたのは、新しいオーナー(ロバート・ハリス&松岡佑子夫妻)が日本に輸出したいと連絡してきた時だった。輸出市場では聞いたことのない名前だったが、オーストラリアの知人は、とてもよいワインを良心的な価格で売るので有名な生産者だという。恐らく今でもマイク・プレス・ワインズが輸出している先は日本だけだろう。 マイク&ジュディ・プレス夫妻の家はシャルドネの畑を見下ろす丘の上にあり、畑での作業を見晴らすことができる。彼らのどの畑を訪ねても、マイクが最も高いところに連れて行き、斜面の傾斜を熱く語ってくれた。2018年に初めて来日、彼らの素朴で真、単刀直入で真面目な様子は出会った多くの人の心を和ませるものだった。質問に対し、実に懇切丁寧に細かい説明が続き、通訳に困ったことを楽しく微笑ましく思い出す。