ジョエル・ピッツィーニは、「幸運」という言葉を何度も口にします。しかし様々な課題に絶え間なく直面するブドウ栽培・ワイン醸造を続けながら、イタリア品種の導入、栽培方法の改善、畑の詳細な調査研究と、常に品質向上に挑戦し続ける革新的気概にあふれたピッツィーニ精神はインタビューからも伝わってきます。直近では新型コロナ禍や2019年から2020年にかけての山火事もありました。彼らが成し遂げた業績は「運」ではなく、まさに自分たちの手で「獲得」したものです。◆ピッツィーニ家、イタリアから移住し、キング・ヴァレーに定住するジョエル ―― 冒険好きだった祖父の兄弟の一人は当時20代前半で、第二次大戦後のイタリアからの脱出を夢見ていました。ある日彼は「仕事とチャンスがいっぱいのオーストラリア!」というビラを港で見つけ、他の兄弟二人と一緒に渡豪します。その後、彼らから私の祖父母のロベルトとローサもオーストラリアへ来るようにという誘いの手紙がしきりに届き、祖父母はついに息子達と母親を連れて海を渡ることにしました。祖父は旋盤工だったのでオーストラリア政府から渡航費の援助があり、祖母のローサは当時妊娠していました。メルボルンの波止場に着いた一家は、ボネギーラ移民キャンプ(ヴィクトリア州北東部ウォドンガの近く)に移動。その後奥地のスノーウィーマウンテンズ水力発電計画*の現場で仕事をするはずでしたが、妊娠後期になっていたローサが「これ以上の移動はイヤ!」と宣言したため、ロベルトと兄弟はマートルフォードに腰を落ちつけ、農業やレストランを始めました。オーストラリアには荷物一つで到着したので、当初は土地を借りて農業を行い、資金を貯めて徐々に自分たちの土地をキング・ヴァレーに購入。まずは肥沃で水もたっぷりある砂質堆積土壌の河川敷で当時政府が大規模な奨励金を出していたタバコを栽培しました。この地でブドウも栽培できたのは幸運でした。ピッツィーニ・ファミリー 左から:ナタリー(ブランドマネージャー)、フレッド(ワイナリー創設者、経営からは5年前に引退)、カトリーナ(大人気の料理教室 “ア・タヴォーラ(A tavola!)”主宰)、カルロ(ピッツィーニ・ワインズCEO)、ニコル(夫は経理担当)、ジョエル(主任醸造家 兼 栽培家)◆ タバコからブドウ栽培への移行最初にブドウを植えたのは1978年、タバコの将来性に翳りが見えてきた頃です。ちょうどオーストラリアを代表するヴィクトリア州ミラワの家族経営ワイナリー、ブラウン・ブラザーズ(現在のブラウン・ファミリー・ワイングループ)が拡大を始めた頃で、雹の被害で畑が壊滅的になった時、同社のロス・ブラウンとその兄弟がキング・ヴァレーのタバコ栽培農家にブドウを栽培するよう説得に来たのです。ブラウン・ブラザーズはキング・ヴァレーのブドウ栽培のパイオニアです。なぜキング・ヴァレーだったのかについて、後にロス・ブラウンは「タバコ栽培農家、特にイタリア系栽培農家は、何でも上手に栽培する『緑の指を持っている』から」と言っていました。同社はこの移行期に素晴らしいブログラムで栽培農家を教育、サポートしてくれました。ワイナリー◆ イタリア品種への移行―― ネッビオーロを最初に植え付けたのは1987年です。イタリア人としての誇りと食文化からです。その頃には父フレッドはブラウン・ブラザーズの栽培家達と仲良くなっていて、彼らは仕事の後わが家に来てワインを造ったり、イタリアから届いたワインを一緒に飲んだりしていました。シャルドネなどの国際品種は競争が非常に激しく新しい産地に光が当たることはほぼ不可能でしたが、イタリア品種に特化したことで周囲の目を引き、サンジョヴェーゼ、アルネイス、 ヴェルドゥッツォ、ピノ・グリージョと品種を増やしていきました。ネッビオーロやサンジョヴェーゼで定評を得るには時間がかかるので、その間シャルドネ、ソーヴィニョン・ブラン、リースリング、メルロ、カベルネ、シラーズも造っていました。当時イタリア品種は殆ど知られていなかったので、各地に赴いて試飲会を行い普及活動にも努めました。多くのソムリエ達がイタリア品種とそのスタイルに興味を持ってくれました。1994年に最初の「ピッツィーニ」ラベルのワインをリリースし、1999年から2004年には特にサンジョヴェーゼが注目を集め、さらに畑を広げました。新しいクローンの入手が可能になり、ピッツィーニは新しい技術とスタイルを追求してこの分野のリーダーになっていきます。次に大きく伸びたのはピノ・グリージョです。当時オーストラリアだけでなく世界中でソーヴィニョン・ブランが大ヒットしており、同じようなスタイルを造ろうと思いました。新しいスタイルは収穫のタイミングをずらし、まだ青く固いもの、青さに歯ごたえが出るもの、少し熟したもの、完熟したものと分けて醸造し、最終的にジグソーパズルのようにブレンドして造り上げました。サンジョヴェーゼとピノ・グリージョのおかげで、この10-15年、近隣のワイナリーが停滞する中でもピッツィーニは大きく成長しました。◆ 新品種導入後、次のステップは質へのこだわりサンジョヴェーゼは私たちがパイオニアですが、ブラウン・ブラザーズが自社ネットワークを通じてブドウの確保に協力してくれました。また、イタリア人醸造コンサルタントのアルベルト・アントニーニ**と契約し、従来のやり方から一層質を向上させる道筋を教えてもらいました。2002年当時のオーストラリアワインはフローラルでフルーティ、比較的単純なスタイルが人気でしたが、私はもっと素朴で風味があり、なめし皮やスパイスのような複雑さが欲しかったのです。そのようなワインを造るための指導をアルベルトがしてくれました。 その一つが長梢剪定です。これにより収量が安定し管理がしやすくなります。摘房や除葉によりキャノピーに間接光が射し込むようにすると、ブドウの成熟、風味、種、茎の木質化が進みます。イタリア品種にとってタンニンの構成はワインのまとまりにとても大切で、2%ほどでも未熟な青いタンニンが混ざるとワインはギスギスして美味しくありません。それに比べるとシラーズはとても楽で、放っておいても飲めるワインができます。◆ 畑自体を理解する最近は「テロワール・スペシャリスト」の異名をとるチリのペドロ・パッラの指導を受けています。彼のやり方はワインを試飲してからそのワインができた畑に出て、2mの穴を掘り、根っこや土壌の状況を分析します。基本的には畑全体のテロワール調査をしているのですが、ある場所は土質が粉末状態なので固い収斂性のあるワインになり、別の場所ではよりフローラルな果実を感じるなど非常に興味深いです。もともと効率上、2-4haの区画に分けていました。場所によりブドウの質が変わることは分かっていたので以前から扱いは分けていましたが、今は畑全体をさらに細かく把握しています。例えば平らな河川敷からのサンジョヴェーゼはフェノールが少なくきれいなアロマがあるので主にロゼに使い、もう少し高台のサンジョヴェーゼはシラーズとのブレンドに用います。畑で耳をすませば、クローンや質の違いによるブドウの使い分けをブドウ自身が「こうやって造って!」と語りかけてきます。結果として労せずして品種の特徴を表現した美しいサンジョヴェーゼのワインが生まれます。これこそが年月を経て築いてきた経験の賜物です。ペドロの指導の下、GPSで印をつけ、手摘みで収穫するすべての畑を見直しました。土壌の種類・条件により早く熟す場所があり、そこは収穫も醸造も他と分けています。私達の畑に特有の区画を知ることで、ピッツィーニらしさを表現するワインを造ることができるようになります。10年後にはテロワールをベースにした小ロットの個性豊かなワインを造るのが夢です。キング・ヴァレー◆ 新型コロナ禍と山火事COVID-19はやっかいです。メルボルンがロックダウンされるということは、自分たちもシャットダウンされているということです。ピッツィーニのワインはセラードアや観光も含めメルボルンが主要マーケットです。それでも業界団体の尽力のおかげでワイン産業が必要不可欠と認められ、収穫・醸造が完了できたのは幸運でした。昨年末の山火事は近くまで迫って来ましたが煙の影響が少なかったのも幸運でした。ピッツィーニでは白とロゼは造りましたが、赤は収穫しませんでした。赤は果皮を漬け込んで発酵させるので煙がもたらす化合物が出るリスクがあると判断したためです。白についても質を守るため、圧搾率を通常の75%と軽めに抑えました。◆ 次の世代私には甥や姪が10名ほどいて仕事を経験できる年齢になっている子も何人かいます。妹ニコルの娘は母カトリーナの大人気の料理教室を手伝っていますし、別の妹ナタリーの息子は畑で私や他のチームメンバーと一緒に働いて興味を示してくれています。家族の若い世代が興味とやりがいを感じ、自分たちの能力を生かしてこのビジネスに関わる機会を作ることは、家族経営ビジネスに携わる自分たちの大切な責務だと思っています。*スノーウィーマウンテンズ水力発電計画:1949年から1972年にかけて実施されたオーストラリア最大規模の水資源開発(水力発電)計画事業。** アルベルト・アントニーニ(Alberto Antonini):1997年よりコンサルタントとして活躍。ワイン誌“Decanter”などで世界のトップ5ワインコンサルタントの一人にも選ばれる。産地の特性を持つワイン造りに注力。トスカーナ地方出身。《ヴィレッジ・セラーズより》ヨーロッパ各地からの移民が渡豪してくるのは19世紀になってから。ワインがなかった各地にブドウを植え、自分たちのよく知るワインを造り、今度は海外に輸出する。そこで貿易摩擦が発生、ポート、シャンパーニュ、プロセッコなどという表記の使用が制限されようになる。いつか日本酒が大ブレイクして世界中で素晴らしい「酒」が造られるようになったら、「オーストラリア産酒」という言葉は使えなくなるのだろうか、「オーストラリア産プロセッコ」のように。