サラにとってヤラ・イエリング参画後、無数にあるチャレンジの中の⼀つが、ワイン界のアイコンにより築かれたこの遺産とDNAを傷つけることなく引き継ぎ、急速に洗練されつつある市場でヤラ・イエリングの名声を保ち続けていくか、ということ。些細なことを気にしない⼤らかさと楽しく温厚な⼈柄である⼀⽅、思慮深く慎重なサラは、数々の障害を乗り越え、ヤラ・イエリングを更なる⾼みへと導いています。◆ 就任当初、ベイリー・カローダスが築いた遺産とどう向き合った︖サラ ―― 私⾃⾝がベイリーに会う機会は⼀度もなかったのですが、彼を知っている⼈は多く、彼の成し遂げた偉業と彼が少し変わった⼈物であることに対し、皆強い尊敬の念を抱いていました。彼は⾮常にしっかりとした信念と意⾒のある⼈でした。それぞれ⾃分のやり⽅でやるのが⼀番良いという意味で、「よい垣根はよい隣⼈を作る」と⾔っていたそうです。彼は他の⼈とは少し違う⽅法をとり、そこから学んでいたのだと思います。ベイリーがヤラ・ヴァレーにきてブドウを植えたのが1969年、ジョン・ミドルトン博⼠がマウント・メアリー・エステートを興したのが1971年、彼らはこの地域の開拓者であっただけでなく、⽇常⽤のテーブルワインを造るという意味でもパイオニアでした。今では私たちはヤラ・ヴァレーは産業としても産地としてもかなりまとまっていますが、当時はすべてが今より少し秘密主義で、お互いにライバル的な関係にありました。ヤラ・イエリングには多くの資料が残されていて、時折コンピューター上にとても⾯⽩い内容のものを⾒つけ出すことがあります。より理解を深めるため、多少時系列的にまとめてみたりしました。とはいえ、そういったことが重要であるのと同時に、これからのことはもっと⼤事です。またつい忘れがちですが、ベイリーの下にあった40年近い間にもヤラ・イエリングの畑とワインのスタイルは常に進化していたのです。ベイリー・カローダス氏◆ ベイリーが当時成し得たことの意味とその時代に進化したことは︖―― ベイリーは醸造よりも畑にフォーカスしていました。そのためにワインの質に影響が出た年もありました。スタッフのうち畑で8⼈が働き、醸造の⼯程でベイリーを⼿伝うのはたった1⼈でした。それでワインの品質に多くのバラツキがありました。よい時の彼のワインは本当に素晴らしく、⼒強くブドウが育つ畑の特⻑が⼤いに表現されています。私が醸造家として今まで関わってきた中でも最⾼の品質のブドウで、それはベイリーが畑に選んだ場所と無灌漑栽培の組み合わせによってもたらされるものです。ヤラ・イエリングのワインは当時としても⾼額でしたが、彼は⾔い訳をしたことはありませんでした。ベイリー同様、私たちも収量を追い求めるのではなく、味のよいワイン造ることだけを考えています。畑の混植状況は、時の経過とともに少し変わりました。カベルネ・フランはうまく育ちませんでした。ベイリーはカベルネ・フランを何度も醸造してみましたが「タンクの錆っぽい⽔」と呼び、⼀度もワインにはしませんでした。そしてカベルネ・フランを引き抜き、代わりにカベルネ・ソーヴィニヨンを増やしました。畑にはベイリーが排⽔管に流すか、売るかして、ワインには決して使わなかった区画がいくつかありました。元々畑の多くを占めるのはシラーズで、私は⼗分な量のシャルドネとピノ・ノワールを造ることができないので、現在それらの品種を新たに植え付けています。ルーサンヌが少量あるので、マルサンヌを主体に、ヴィオニエを少し加えた新しいワインも仕上がってきます。 醸造に関して、ベイリーには⾮常にしっかりとした⾃分独⾃のスタイルとテクニックがあり、⻑い間それを変えませんでした。私が初めてヤラ・イエリングでワインを造った2014年、私はとてもドキドキしながら、これまでベイリーがしてきただろうやり⽅でワインを造る、ということに徹しました。それは素晴らしい学びの経験でしたが、⾃分の知識にヤラ・イエリングの経験が蓄積され、では2015年は、他の⼈だったらどうするかということよりも⾃分の直感を使い、⾃分のやり⽅で造らなければ、と考えることにしました。そういう意味では、ワインのスタイルは少し変わりました。ヤラ・イエリングのヴィンヤード◆ サラが来てからワイナリーで変わったことは︖―― 正直なところ、(着任当初の状況は)かなり退化していました。苦労するやり⽅は「名誉バッジ」のようなものですが、私のやり⽅ではありません。ヤラ・イエリングの新しいオーナーたち**は2013年にいくつかの新しい機材を購⼊していましたが、タンクはたくさんはなかったです。今はワイナリーに⼊ると、5年前ここにどれくらい⾜りないものがあったか、時々忘れてしまいます。新しい機材とタンクは着任後、徐々に買い揃えました。今ある設備や技術でよりよいワインができるし、収穫の終わりには、今より”⼈”が良くなっていると思います。私が今しようとしているのは、畑での取り組みを含め、ワイン造りの最前線をさらに前進させることです。⼿摘みでの収穫、選果と選果台へブドウを送るホッパーを振動させて雑多なものを振り落す⼯程、ブドウの実を粒の状態で発酵できるよう、優しく房を除梗する機械、⼿作業での果帽の押込み、抽出など、つまり⽬指すスタイルのために最初の段階から最善を尽くすことです。ベイリーは梗⼊りのカゴの導⼊と梗のタンニンを利⽤したことで有名でした。発酵槽の1/3に梗の⼊った筒状のかごを⼊れる、1/3は⼊れない、そして残りの1/3の発酵槽は、底に梗の⼀部を敷く、といったようにどのワインにも⼀貫して梗にこだわっていたという印象があります。私はそういうやり⽅はしません。シーズンごとに畑でのブドウの⾵味、タンニンの成熟などに対応する必要があります。もし梗が⻘く、未熟であれば、梗の筒カゴはあまり使⽤しません。またワインをプレスしてブドウの果⽪と種から分けるタイミングに関しても、私はベイリーよりかなり早いです。それが、ベイリーのワインには凝縮した味に表れます。オールドワールド・スタイルとより⼀貫性のある今時のワインスタイルとを分けるものです。ベイリーは、もし⾃分が造ったワインが気に⼊らなければ、ワインを排⽔⼝に流してしまえました。でも私はビジネスのオーナーではないので、私の仕事は質のよいワインを毎年造ることです。もし私がワインを排⽔⼝に流したとしたら(実際問題、最近はそういうことはできないのですが)、ワインがどこに⾏ったか説明責任が発⽣します。ベイリーは他の誰も考え付かなかったことを試していましたが、現在では状況が全く異なります。 ほとんど何をするにしても、私にはベイリーの10倍も選択肢があります。酵⺟について⾔うと、ベイリーの造ったワインはすべて⾃然発酵だと思います。揮発性が⾼いはそのためでしょう。私はシャルドネは⾃然発酵が好きですが、⾚ワインについては、⾵味やタンニンをもっとコントロールしたいので、その年の栽培シーズンの天候や試飲したワインの状態に応じて培養酵⺟を使っています。過去3年間、多くの異なる酵⺟を試験的に使ってきましたが、使う酵⺟によりワインは驚くほど変わります。⼀つのワインに異なる多くの酵⺟を使⽤することで、味わいに多層的な質感や果実味、複雑さを醸し出すことができます。もしワインにストラクチャーが⾜りなければ、ストラクチャーを加味できる酵⺟をもっと使います。ヤラ・イエリングには⼩型の発酵槽が数多くあるので、1ロットのブドウで様々なことができます。酵⺟は私にとっても新鮮な驚きの対象になっています。オーク樽の使い⽅も、ベイリーの時代と今とでは違います。私は彼ほど新樽を使いません。軽く焦がした樽を⽤い、通常ベイリーよりも早く樽から出します。ベイリーはいつも20-22ケ⽉後に瓶詰めしていましたが、私の場合、ワインによって熟成期間が彼より12ヶ⽉少ないものもあります。樽のニュアンスは、より柔らかく、熟成期間はより短く、焼き⽬もより軽くなります。ヤラ・イエリングのワインがどの⽅向へ向かうのかという点をまとめると、ワインには以前よりも純粋な果実味が加わり、若くても親しみやすい味わいになっていますが、畑やブドウはベイリーの時代から変わっていません。ブドウは酸とタンニン、バランスと成熟を備えているので、ワインにはこれまで同様⻑い⽣命⼒があります。**カローダスの没後、ヤラ・イエリングの経営権は、彼のワインの長年のファンで、晩年親交のあったケイズラー・ワインズ(バロッサ・ヴァレー)のオーナーに託された。ティー・チェスト・発酵槽 (Facebookより)◆ その他気づいた⼤きな変化は︖―― ヤラ・イエリングに来てから、樹齢に関する私の考えは明らかに変わりました。重要なのは樹齢よりもどういう樹を選ぶかだと思います。ヤラ・イエリングにはベイリーが70-80年代に造ったワインがあって、私は時にそのボトルを開ける特権に恵まれているのですが、ワインは今でも⾮常に素晴らしいです。若⽊でつくられたワインは無視されることがありますが、それらのワインは、当時まだ若樹だったブドウから造られたのです。 今でも畑では新しいブドウ樹を栽培しているし、樹齢も重ねてきているので、恐らく歴史を積み重ね、味わいの複雑さも増していくでしょう。 それにしても私は崩れ始めているヤラ・イエリングワインをまだ⽬にしていません。 ベイリーのワインは今も輝きがあり新鮮で、ワインの寿命はまだ計り知れません。◆ 「ワインメーカー・オブ・ザ・イヤー」受賞がもたらしたインパクトとは︖―― 受賞はかつてヤラ・イエリングで⾏われていたことを再現しようとするのではなく、私が⾃分の知っているやり⽅、スタイルでヤラ・イエリングのワインを造ることに⾃信を与えてくれました。受賞を通じ、ヤラ・イエリングを⼈々に思い出してもらえたのは素晴らしいことです。多くの⼈々のヤラ・イエリングというブランドとのつながりは、ベイリーとの結びつきでもあるのですから。ベイリーが2008年に亡くなった後、⼈々とヤラ・イエリングとの結びつきはしばらく途切れてしまっていましたから。また受賞は、若い⼈たちにヤラ・イエリングという名前を紹介することにもなります。ヤラ・イエリングには20-30年に亘ってワインを購⼊してくれる⼤切な顧客が数多くいます。ということは、若い⼈たちに知ってもらうことが同時に、私たちの未来を拓いてくれるといえます。受賞後、セラードアを訪ねてくれる⼈の数がとても増えました。受賞してからのこの2年、私が嬉しく思っていることは、⼈々が実際に訪ねて来て、試飲して、⾃分たちに買える1、2本を買っていってくれることです。ヤラ・イエリングは憧れのブランドのようなもので、受賞したことで、⼈々がわざわざワイナリーに来てワインを実際に試し、ブランドを知ってくれるきっかけとなったのです。サラ・クロウ◆ 受賞したワインのことを、話してください―― 私が独⾃に開発したワインがひとつあります。ピノとシラーズのブレンドという少し変わったワインで、ベイリーのスタイルとはまったく異なっています。「シラーズのこの区画のブドウを半分を使って全房発酵したら、最終的にはどんなワインになるだろう」と考えました。できたのがこの、伝統的なヤラ・イエリングのスタイルとは異なる、美しく⾹り⾼いワインです。ここに来るまで、私は⼀度も全房発酵をしたことがありませんでした。 ここにいると様々に異なる醸造の⽅法やスタイルを試すことになるし、それらをより理解したいと感じられるのは素晴らしいことです。受賞したワインはちょっとした試みでしたが、本当にうまくいきました。造ったワイン(全房発酵のシラーズ)をどうするか決まらないまま6ヶ⽉が過ぎたのですが、そのとき1952年からモーリス・オシェイが造ってきた、マウント・プレザントの古いワインを飲む機会があり、「このシラーズにピノはどれくらい⼊っている︖」という話になりました。ラベルには「エルミタージュ」と書かれてありますが、ピノが加えられていることは、皆知ってはいました。その会話とワインのことが頭から離れないまま週末を過ごす中で、電⼒もないところでモーリスはこのようなワインをどうやって造ったのだろうかと考えるようになっていました。⽉曜⽇に仕事に向かい、あの全房のシラーズのサンプルを取り出し、そこにピノをいくらか⼊れたらどうなるかと考えました。まったくスタイルの違う、素晴らしいワインになりました。私はそのワインを⾃分のボスに⾒せました。彼⾃⾝は⾯⽩いと思うが、オーナー達に⾒せて合意を得ることが必要だと⾔いました。オーナー達は2⼈ともベイリーの時代に毎年彼のところを訪れてワインを買っていましたし、友⼈でもあったので、そのようなヤラ・イエリングの歴史には敬意を払わなければなりません。なので内⼼、「まあ2⼈がこのワインを認めることはないな」と思っていました。それから数週間後のある⽇、スタッフがその⽇の作業内容聞いてきたので、私は「ピノとシラーズをブレンドする」と答えました。「え、オーナー達はいいって⾔ったの︖」「いや、まだ。でもとにかくブレンドする」と。その⽇こそがちょうど良いタイミングと感じたのです。それでブレンドはしましたが、商品化の承認は得ていませんでした。私はラベルをデザインし、300ケース分の瓶詰を予約しました。ヤラ・イエリングのブランドを再起動させるためにはそうすべきだと思いました。そして幸運にも、オーナー達はOKと⾔ってくれ、ジェームス・ハリデーからは98ポイントの⾼評価を得ました。◆ これからの5年間、どのようなワイン造りを⽬指すのか︖―― ⾃分たちがしていることを⼤きく変更するのではなく、畑やワインの細部を理解し、洗練していくことが最も⼤切と考えています。5ヴィンテージ後も同じブドウの区画で今と同じことを毎年している、という状況にはいたくないです。ですから時々⾃分に⾔い聞かせることが必要です。―― これはうまくいった、でももっとうまくできることがあるのではない?《ヴィレッジ・セラーズより》1990年代にベイリー・カローダス博士が造るワインは、当時のオーストラリア輸出機構の試飲パネルの口に合わず、時には欠陥ワインであるとして輸出許可をもらえないことさえあった。仕方なく許可の要らない少量で輸入したこともある。ピノ・ノワールは日本でも特に人気で、1993年ヴィンテージは年間100ダース以上販売した。同時に提案された1990年ヴィンテージは仕入れを決断するまでに数年を要したが、訪問のたびに一緒に試飲、チャーミングな果実味がやっと表れてきた2001年に仕入れた。しかしその頃にはオーストラリアでも注目を集めるようになり、蔵元の在庫はあっという間になくなった。ヴィレッジ.セラーズとヤラ・イエリングの関係は、サラの言う「2008年後にしばらく途絶えた」うちの一つだった。彼女が加わった今、こうして安定した信頼関係を再開できたことは何にも増して嬉しい。