◆ 個性派ダーレンベルグのオズボーン父子■ ダリー・オズボーン”Legend of the Vine”ことダリー・オズボーンは最近、90歳の誕生日を祝ったが、現在もダーレンベルグの当主、マネージング・ディレクターとしてビジネスに深く関わっている。インタビューの間、ダリーの口からは、数字や日付、数々の可笑しな話しが溢れるように出てくる。彼は1943年、16歳で家業のブドウ栽培とワイン醸造を手伝い始めてから、赤品種はほぼすべて栽培してきたという。当時、ブドウはバルクワインとして卸していたが、1957年に父のフランクが亡くなるとビジネスを引き継ぐ。1959年には、ダーレンベルグの象徴ともいえる赤いストライプを冠した「ダーレンベルグ」を興し、1984年に息子チェスターに醸造の主役を譲るまで当主兼醸造家として、今日のダーレンベルグの基礎を築いた。ダリーのお気に入りワインは、ハーフガロン(現在のオーストラリアのメトリック法では2L)の大瓶で販売されていた「ザ・シラーズ・グルナッシュ」。1967年ヴィンテージは、オーストラリア・ワインショーで29の金賞と7つのトロフィーを獲得した輝かしい記録を持つ。■ チェスター・オズボーン1983年に醸造の名門、アデレード大学ローズウォーシー校でブドウ栽培とワイン醸造の学位を取得した後、チーフワインメーカーとして家業に参画。30年以上に亘ってダーレンベルグの成⻑を牽引している。白ワインのレンジを広げることから取りかかり、少しずつ栽培品種を増やして、今では138haに及ぶ自社畑に37品種のブドウが栽培されている。チェスターは味覚を分析することにおいて並はずれた才能を持ち、コーヒーや紅茶など味の強いものを摂取しないように気を付けてもいる。彼のこの能力が土壌のニュアンスの違いを明らかにしたいという熱意の源となり、シラーズの10の単一畑やグルナッシュの3つの単一畑のニュアンスの違いを見極め、その類まれなブレンドスキルによって「デッド・アーム・シラーズ」や「ザ・オールド・ブローク&ザ・スリー・ヤング・ブロンズ(チェスターと3人の娘を祝福するために造られたシラーズ、ルーサンヌ、ヴィオニエ、マルサンヌのブレンド)」が造り出されている。またチェスターは昔から建築に対し、情熱的といえる興味を持っている。ダーレンベルグの現在のプロジェクトは、今後数年間の自社の方向性と発展のためだけでなく、今後のマクラーレン・ヴェイルの地域振興の在り方をも見据えたものであるべきとして、現在ダーレンベルグの畑の真ん中に、その考えを象徴する建物「Cube(キューブ)」を建設中。キューブは、セラードアのテイスティングルーム、バー、レストラン、プライベート・テイスティングルーム、オフィス、展望スペースなどを持つ5階建てのビルで、ワインとツーリズムの未来への大きな投資でもある。ダリー(左)とチェスター(右)◆30年を振り返り―― チェスターは言う。「(今から30年前の)1987年には自分はすでにチーフワインメーカーだったので、ワイン造りにおいてここ30年間で変革したことの多くは、それまでに自分が経験したことや感じたことが基盤になっている。自分が家業に参画して間もなかった1985年、政府がブドウの供給過剰を理由にブドウ樹の引き抜きを奨励し、応じた栽培農家には1ha当たり$2,000が支払われた。アデレード北部のワイナリーはその影響を最も受け、非常に困難な時代だった。30年ほど前は、古木で低収量の偉大な畑であってもそうでなくても、ブドウの取引価格はどの畑も一律、量で決まっていた。今では古木で収量が少なくとも果実の質に応じて価格が付けられる。しかしそういう時代が来る前に古木で低収量の畑の多くがこのような引き抜き政策によって消滅してしまったのはまったく無念だ」。チェスター(左)とダリー(右)、1980年◆ 畑で起きたこと■ 栽培方法については、約20年前から、父がごく若い頃にやっていたような昔ながらの方法で畑の本来の姿を取り戻そうと少しずつ変えてきた。1943年に父がワイナリーで働き始めた時、彼は耕作用の馬を4頭しか持っておらず、雑草を刈ろうとしても追いつかなかったそうだ。5年後にトラクターを手に入れたときには、すべての雑草を刈ることができ、とてもうれしかったと聞いた。20年前に私が「耕作は土壌を壊すので、肥料も灌漑もできる限りやめるつもりだ」と話すと、「そんなことをするなら、今まだ価値があるうちに畑を売るべきだ」と父に言われたことを覚えている。しかし、肥料や灌漑がなくとも樹は生き残り、それどころかむしろブドウの質が向上したことには父も驚いていた。そして、ワイン造りを大瓶や樽詰めから750ml瓶に切り替え、レンジを増やし、今に至るまで質のよいワインを造り続けることができている。除草剤や肥料の使用をやめ、有機栽培やバイオダイナミック農法の認証を取ってからは、ワインにテロワールの違いが現れるようになったことを実感している。今やダーレンベルグはオーストラリア国内最大のバイオダイナミック農法の生産者でもある。■ 樹齢には大きな意味がある。ダーレンベルグの畑には樹齢50年、80年、100年の古木が多くあり、それらは若木に比べその土地の特徴をより強く表現している。30年前に樹齢20年だった樹は現在樹齢50年で、時間の経過とともに、その果実にはミネラルと土っぽい風味が見出されるようになった。このことはワインに大きな影響を与える。樹齢100年のブドウはその場所の個性を表現し、凝縮した土っぽさ、鉄分、ススっぽさがあり、タンニンは閉じていて、控えめでタイトでタフで面白い。その土地らしさを表現する偉大なワインを造れるかどうかは、ブドウ樹の成熟度による部分が大きいと思う。デッド・アーム・シラーズには樹齢100年を超えるヴィンヤードの果実が使われる■ ブドウ品種の多様化も大きな変化の一つ。1980年初めからシャルドネとソーヴィニヨン・ブランを植え始め、まだ残っていたパロミノ、ペドロ、ドラリーニョ、シュナン・ブランといったその当時の伝統的な白は、次第に切り替わっていった。リースリングもたくさん造ったね。当時のマクラーレン・ヴェイルでは、赤はシラーズとカベルネが主流で、その後すぐグルナッシュとムールヴェードルが植えられるようになった。当時はこれら以外の品種はあまり造られていなかった。1989年にはシラーズが枯れてしまった難しい畑にシャンブルサンを植え、その後、他の品種の可能性を模索していった。世の中が赤ワインブームの90年代半ば、ダーレンベルグではシャルドネやリースリングではなく、ローヌの白品種を植えるべきと考えていた。マクラーレン・ヴェイルの多くの栽培農家は、ブームに乗ってシラーズを植えていたが、供給過剰になるのは目に見えていたので、私は彼らにローヌの白品種ヴィオニエを植えるよう薦めた。そして数年後、マクラーレン・ヴェイルのヴィオニエの栽培面積は56haにも拡大した。うまく育つかどうか試さずに始めたが、マクラーレン・ヴェイルが南半球最大のヴィオニエの産地となるまでに成功したのは運がよかったと言える。今でもダーレンベルグの白のベストセラーは、「ハーミット・クラブ・ヴィオニエ・マルサンヌ」。1990年代にはテンプラニーリョ、ティント・カォン、サグランティーノ、サンソー、グルナッシュなど多くの品種を植え付け、最近ではサンジョベーゼやアルネイスといったイタリア品種も始めた。今ダーレンベルグでは計37品種を栽培している。◆ ワイナリーで起きたこと―― 30年前と今とでは、一見あまり変わっていない。我々は今もすべてバスケットプレスで圧搾し、使い古したオークの発酵槽を使っている。白ワインでは 30年以上前から不活性ガスや様々な選別酵母による発酵を手がけ始め、それは今もあまり変わっていない。現在ダーレンベルグは世界最大のバスケットプレスのユーザーで、ワイナリーには10機あり、そのうちの1機は200年前、もう1台は100年前に造られたものである。それ以外はすべて(ステンレスの細⻑い板の部分以外)自分たちで真似て作った。どれも2t用の小さな圧搾機で、1時間おきに破砕・圧搾され、果実の新鮮さが保たれる。2トンのバスケットプレス――発酵槽は30年前には20基ほどだったが、現在は240の小さな発酵槽を使い分けている。またオーク樽も以前より多く使用している。1980年代には主にカスクワインを造っていたので、赤やシャルドネにはオーク樽をあまり使っていなかった。今、ワイナリーには10,000樽があり、一つの発酵槽のワインは14の樽に移され、マロラクティック発酵は樽内で終える。つまり畑ごとに分けて醸造を行い、その経過を最終的なブレンディングまでずっとフォローすることになる。細分化した醸造を大規模に行うことは、多くの作業が伴い、かなり大変なことなんだ。赤ワインは足で踏んで色・味を抽出―― デモイジー社製のクラッシャー(破砕機)を初めて購入したのが、1987年。それ以前は、もっと負荷のかかる破砕機を使っていたのでブドウの実が押し潰しされてしまっていたが、デモイジー社製に切り替えてからは、白ワインは醸造の初段階でより香りが立つようになった。2009年には赤ワイン用にブドウを優しく破砕できるように改良されたヴェロ社製の破砕機を購入した。これにより、果皮をそれまでよりも⻑く果汁に触れさせることが可能になり、タンニンが15%多く抽出できるようになった他、種や梗が押し潰されることが少なくなった。それにより2009年以降、赤ワインはより花の香りが際立ち、優雅に熟成するようになり、ワインの質も向上した。こう見ていくと大きな変化があったと言える!――オーク樽については、当初はペンフォールド社がグランジに使っていたのと同じAPジョン社製を樽熟成用に使っていたが、キメが粗く、かなり個性が強かった。その後、もっとキメが細かいものや安価なアメリカンオークも見つけたが、今はフレンチオーク樽のみ、しかもかなり軽いトースト度合のものを選んでいる。強めに焼かれたヘヴィー・トーストの樽はキャラメル香が強く、ブドウ樹や品種の風味、土壌の個性を隠してしまう。ワインはオークのフレーヴァーで満たされるのではなく、フラワリーでエレガントなボルドーのように、舌の中間部分に優雅さが感じられるものであって欲しい。◆ ワイン市場と輸出―― 30年前、ワインのラベルには、まだポート、クラレット、バーガンディ、モーゼル、ホック、シェリーといった一般的な名称が表記されているのみだった。しかしその後、シラーズはカベルネとは異なる品種ということを理解するワインドリンカーたちが現れ、ワインは品種ごとに区別されるようになり、オーストラリアワインの売り上げに大きな影響を与えるようになる。それはオーストラリアのワイン産業が本格的に輸出を開始する時でもあった。そこで1989年には「バーガンディ」と表記していたワインを「ダリーズ・オリジナル・シラーズ・グルナッシュ」に名前を変更した。70年代にはグルナッシュは人気のないブドウだったが、80年代に品種としてラベルに表記されるようになったことで、ジャーナリストたちも興味を持ち始めた。この変化は徐々に広がり、1985年の「オリーブ・グローブ・シャルドネ」を皮切りに、1987年には「ハイトレリス・カベルネ」「アイアンストーン・プレッシングス GSM」、1993年には「デッド・アーム・シラーズ」、1995年には「カッパーマイン・ロード・カベルネ」というように我々も自分たちのワインに新しい名前をつけていった。また、より質の高いブドウが得られるようになったことで、徐々にレンジを増やし、様々な価格帯のワインを販売できるようになった。―― ダーレンベルグが最初にある程度まとまった海外輸出をしたのは80年代後半のことで、「1985年 オールド・ヴァイン・シラーズ」が初めてコンテナーでオランダに輸出された。日本のヴィレッジ・セラーズに輸出を始めたのは1996年で、今ダーレンベルグのワインは世界80カ国以上に輸出されている。